福音に対してどっちつかずで、無関心でいるということは、エリヤの時代だけに起ったことではなく、歴史を通して様々な人々が陥った状況です。エゼキエル書を開いてみましょう。驚くべきことが書かれています。エゼキエル書33章です。エゼキエルという人は神様の偉大な預言者でした。彼はバビロンの捕虜たちの中におり、預言者ダニエルが生きていた時代に生きていました。イスラエルの民は霊的干ばつ状態にありました。彼らがバビロンにいた理由は、神様の道に背いたからでした。そこでエゼキエルは神様の言葉を語り、人々が再び神を畏れ、自分たちが神の民であることを信じるよう励ましたのです。
人々が預言者エゼキエルのことをどう言っていたかに注目してください。エゼキエル33章30節です。これは神様がエゼキエルに語られた言葉です。「人の子よ、あなたの同胞は城壁の傍らや家の戸口に立ってあなたのことを語り、互いに語り合っている。『さあ、行って、どんな言葉が主から出るのか、聞こうではないか』と。」もしここで終わっていたなら素晴らしかったでしょう。人々は、神様の言葉を聞きに行こうと言っていたのです。ところが、31節を読んでください。「そして、彼らはあなたのもとに来る。民は来て、あなたの前に座り、あなたの言葉を聞きはするが、それを行いはしない。彼らは口では好意を示すが、心は利益に向かっている。」さらに32節を読んでください。「見よ、あなたは彼らにとって、楽器にあわせて美しい声でうたうみだらな歌の歌い手のようだ。彼らはあなたの語ることを聞くが、それを行いはしない。」これがエゼキエルの時代に生きていた人々の状況でした。人々は、「さあ、行って、どんな言葉が主から出るのか、聞こうではないか。」と言っていました。しかし神様は、エゼキエルはただの歌い手で、人々は聞きに来ることを楽しんでいるが、それを行わないと言いました。彼らは集会を愛し、お説教に感化されることも愛し、エゼキエル語りを聞くことも愛していました。ところが彼らは、その言葉に従わなかったのです。無関心さ――それがエゼキエルの時代の人々のいた状況でした。
無関心とは、神様に仕えていないときにだけ起ることではないのです。神様に仕えているときにでも、無関心に陥ることはできるのです。あなたは、教会に出席し、各行事に参加しながらも、心の中では無関心になることができます。聞いた言葉が右耳から左耳へとぬけていけば、わたしたちは神様の言葉に従っていないのです。神様の言葉を日常生活の中で実際に活かしていないのです。わたしたちは、エゼキエルの時代の人々と同じ過ちを繰り返しているのです。
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