2013年12月27日金曜日

福音への免疫8

わたしたちは、あのイスラエルの民のように無関心になっていないでしょうか?背教に敵対すること、間違った教理に反対すること、真理から外れた道に反対することは勇気のいることでしょう。心の中で真実を知っていても、もし自分の教会でなにか間違いを見つけたら、誰も責めないために口を閉じて黙っておく方が簡単かもしれません。しかし、それは神様に敵対しているのと同じ重い罪だと書かれています。あなたは声を持っています。そして声を持っていることには意味があるのです。それは真実を宣べ伝えるためなのです。責めるようにではなく、また不快な言葉によってではなく、わたしたちは愛を持って神様の恵みによって味付けされた言葉で宣べ伝えるべきなのです。わたしたちはいつ、どのように伝えるか気を付けなければなりません。
ひとつ私たちが知らなければならないことは、宗教的危機に対して私たちは黙っていてはいけないということです。わたしたちはエリヤと同じような状況に今、立たされているのです。エリヤのお話は今日のわたしたちに当てはまるお話です。あのカルメル山上の出来事の少し後、イゼベルに命を狙われていると知ったエリヤはホレブに逃げます。みなさんはこのお話を覚えていますか?そこで彼は、「わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」(列王記上19:14)と神様に言いました。すると神様は何と言ったでしょうか?「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」(同18節)。七千もの人々がバアルに伏していなかったのです。しかし、エリヤが彼らに、「いつまでどっちつかずに迷っているのか」と訴えかけたとき、彼らはただ無関心に黙っていました。偽りを行わないのは大切ですが、真実を行わなければ意味がありません。それが、神様がわたしたちわ呼び出された目的なのです。声は神様から与えられた貴重な贈り物です。声は人々を神様の知恵、そして真実を知る知恵へと導くことができます。

無関心さはわたしたちを攻めではなく、守りの位置におきます。誰も一晩で福音に無関心にはならないのです。ではどのようにして人は福音に無関心になるのでしょうか?エリヤの時はどうだったか覚えていますか?徐々にです。徐々に人々は無関心になっていったのです。毎日のディボーション(Devotion)を怠ったり、祈りは食事の感謝だけになったり、今まで観ていなかったものを観はじめたり、今まで聴かなかったものを聴きはじめたり、今まで行かなかったところに行きはじめたりするうちに、思っているよりもすぐにわたしたちは初めに受けた衝撃を忘れ、無関心になってしまうのです。福音に免疫をつけてしまうのです。そして、聖書を読んでも何も語りかけてこないのはなぜかと疑問に思うのです。お説教を聞いてもつまらないのはなぜかと悩むのです。それは、あなた自身が福音に対して中立に立つという選択をしたからなのです。

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