2014年6月15日日曜日

マルコ3:33-35 デボーション

今日の聖句:マルコ3:33-35
イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

イエス様の家族は、血の繋がりに基づいていませんでした。神様の御心を行わないならば、イエス様の実の母と兄弟も、彼の真の母と兄弟ではなかったのです。逆に神様の御心を行うならば、どんな人間もイエス様の兄弟、姉妹、また母なのでした。そして神様の御心を知るためには、まずイエス様の周りに座り、彼の言葉に耳を傾ける必要がありました。

今日の質問:イエス様は、あなたのことを兄弟、姉妹、または母と呼んでくださるでしょうか?イエス様の家族にはどうしたらなれるでしょうか?

今日の祈り:天の父なる神様、あなたの家族になるよう招いてくださったことを感謝します。あなたの御心をわたしに教えてください。

もっと深く:ローマ8:14;エフェソ1;3

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マルコ3:31,32 デボーション

今日の聖句:マルコ3:31,32
イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを探しておられます」と知らされると、

大勢の人がイエス様の足元に座りその話に聞き入っていました。しかし、彼の母と兄弟たちはその中に加わりその話に耳を傾けようとはしなかったようです。その代わりに彼らは外に立ち、イエス様を呼びつけました。しかも、自らではなく他人を介し救い主を呼びつけたのです。

今日の質問:
あなたはイエス様の言葉に素直に耳を傾けていますか?自らの都合や要求ばかりを訴えてしまっていることがありますか?

今日の祈り:
自分の都合や要求ではなく、まずイエス様の足元に座ってその言葉を聞けるように助けて下さい。

もっと深く:
ルカ10:38−42、ローマ10:17

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マルコ3:30 デボーション

今日の聖句:マルコ3:30

イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

人々はイエス様が悪霊に取りつかれていると言ってあざけりましたが、そう言う根拠は何もありませんでした。イエス様の働きが神様の力によることは、だれの目から見ても明らかでした。それでも彼らは自分たちのプライドを傷つけまいとして、彼らを救うことのできる唯一のお方をあざけったのです。

今日の質問:
根拠もなく、誰かや何かのことをバカにすることはありますか?そうすることで、自分のプライドを傷つけまいとしていませんか?

今日の祈り:
イエス様、わたしは自分のプライドを守るために、人のこと、そして唯一の救い主であるあなたのことさえバカにします。わたしの心を作り変え、あなたを素直に受け入れさせてください。

もっと深く:
イザヤ53:3;1テサロニケ4:8;ヘブル10:29;12:25;詩編51:12

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マルコ3:28,29 デボーション

今日の聖句:マルコ3:28,29
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

もし罪の赦しを求めるなら、すべての罪は赦されます。どんな罪であろうと、すべて赦されるのです。しかし、赦しを求めなければ、罪は赦されません。聖霊は、あなたが罪の赦しを求めるよう、あなたの良心に働きかけられます。でもその良心の呵責を無視し続けるなら、あなたはいつか聖霊の届かないところに行ってしまいます。するとあなたはもう罪の赦しを求めることをせず、永遠に赦されないのです。

今日の質問:あなたは、自分の良心を通して働かれている聖霊を拒み続けていないでしょうか?罪悪感から気を紛らわそうとしていないでしょうか?すべての罪の赦しを求めたでしょうか?

今日の祈り:天の父なる神様、あなたは今日も、聖霊を通してわたしを罪の赦しに招いておられます。わたしはもうあなたの招きを拒みません。わたしのすべての罪を赦してください。

もっと深く:ヨハネの手紙一1:9;イザヤ55:6,7

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マルコ3:27 デボーション

今日の聖句:マルコ3:27
また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。

サタンはこの世界を罪で支配しています。罪人である私たちも必然的に彼の支配下に置かれ、彼の財産となってしましました。イエス様はそんな私たちをサタンから取り返す為にこられました。私たちにとっては罪からの救い主ですが、サタンにとってはまさに略奪者です。そして、その任務をより絶対的なものにするためにイエス様は十字架の約束によってまずサタンに勝利されたのでした。

今日の質問:
あなたはイエス様があなたをサタンから取り戻そうとして下さっていることを信じますか?

今日の祈り:
イエス様がいつまでも私を愛してくれていることを感謝します。私をサタンの支配から取り戻して下さい。

もっと深く:
Ⅱコリント4:4、ルカ4:5−6、ヨハネ16:33

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マルコ3:24-26 デボーション

今日の聖句:
マルコ3:24-26

国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。

悪霊や病によってサタンから苦しめられていた人々は、次々といやされていきました。イエス様は、サタンに支配された人々を解放するために働いていたのです。しかし律法学者はそれをサタンの働きだといいました。イエス様は彼らに対して当たり前の返答をなさいます。サタンの支配から解放する働きを、サタン自身がするだろうか?サタンもバカではありません。そんなことをすればサタンの国の秩序が成り立たないのです。

今日の質問:
すべての人は生まれつき、サタンの力によって心を支配されています。そこからあなたを解き放とうとしてくださっているイエス様の働きに、あなたはどのように反応しているでしょうか?

今日の祈り:
わたしをサタンの力から解放してくださるのはあなただけです。どうかその働きを拒むことなく、あなたのものとして受け入れることができますように。

もっと深く:
マタイ12:25-28;Ⅰヨハネ3:8;使徒26:18

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マルコ3:23 デボーション

今日の聖句:マルコ3:23
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。」

イエス様は、律法学者たちの誤った考えをそのままにしてはおきませんでした。「サタンがサタンを追い出すことができない」ということを、彼らにも分かるように、たとえを用いて語られるのでした。

今日の質問:イエス様は、あなたを呼び寄せて、あなたの間違いを正そうとされていますか?自分にもわかるように語ってくださるイエス様に、あなたはどう答えていますか?

今日の祈り:天の父なる神様、あなたがわたしを呼び寄せ、わたしをあなた御自身に導かれようとされていることを感謝します。わたしに分かるように語ってくださり、ありがとうございます。あなたの御言葉に従わせてください。

もっと深く:詩編119:9;マルコ4:33

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2014年6月7日土曜日

マルコ3:22  デボーション


今日の聖句:
マルコ3:22

エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言っていた。

イエス様の働きを諭しにやってきたのは身内の人々だけではありませんでした。律法学者たちはやってきて「あの男はベルゼブル(悪魔たちの頭)に取りつかれている」と言いました。イエス様の働きが人間以上の力によって行われていることは明らかでした。しかし彼らは、イエス様の偉大な働きを神様の力ではなくサタンの力のせいにし、否定したのです。

今日の質問:
あなたはイエス様、または教会の働きをサタンの力だといって否定してしまうことがありますか?自分の罪に気づかせる聖霊の働きを、無意識のうちに否定してしまっていませんか?


今日の祈り:
わたしの心に働きかけてくださるあなたの働きを、否定してしまうことがないようにしてください。あなたの働きを受け入れる信仰を与えてください。

もっと深く:
ルカ11:14-、ヨハネ7

2014年6月6日金曜日

マルコ3:20,21  デボーション


今日の聖句:
マルコ32021

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

イエス様が働きを始められたという噂は、地元の人たちの耳にも届いていました。それと同時に、「あの男は気が変になっている」という噂も、ユダヤの指導者たちから広まっていました。それを聞いた身内の人たちはどう思ったことでしょう。ついこの間まで自分たちと暮らしていたあのイエスが、国中で尊敬されているリーダーたちから狂人扱いされている。「ちょっとイエス、頭を冷やせ」と説教しようとでも思ったのでしょう。忙しく人々に仕えるイエス様の働きをやめさせようと、彼らはイエス様のもとにやってきたのでした。

今日の質問:
世間一般や他の人、あるいは自分自身の見方によって、イエス様や聖書のことを理解しようとしていないでしょうか?「ちょっと頭を冷やせ」とお説教をしているつもりで、実はイエス様の働きを妨げてしまっていることはないでしょうか?

今日の祈り:
イエス様、わたしは狭く不完全な人間の見方でしか、あなたを見ることができません。どうか、あなたの働きを見分けることができるように、わたしの目を開いてください。他人の意見や自分の考えによってではなく、あなたのみ言葉と霊の力によって、あなたを知ることができますように。

もっと深く:
箴言34;イザヤ401314;Ⅰコリ214, 12;ヨハネ1613

執筆:山地悟
2014/06/06

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刑務所でのわたしの証 5

わたしたちはどうすれば、どのような状況にあっても神様に忠実であることができるのでしょうか?わたしたちは恐れが妥協する原因であるということを知らなければなりません。多くの場合、恐れによってわたしたちはサタンに妥協を許します。「これをしなければならないのは分かっているけど、この人を不快な気分にさせたくないからできない。」というとき、わたしたちはその人を、そして結果を恐れています。「わたしは土曜日の仕事を辞めることはできない。だれがわたしの家族を養うのか?」その行動の結果を恐れているのです。わたしたちが頻繁に神様の掟からそれて妥協する理由は、「何が自分に起きるのだろう?」と結果を恐れるためです。
聖書の箴言28章1節を開いてください。「神に逆らう者は追う者もないのに逃げる。神に従う人は若獅子のように自信がある。」どのように自信があると書いてありますか?若獅子のようにです。わたしがこの経験を通して学んだことは、クリスチャンとして、わたしたちは決して結果を恐れて神様の掟に妥協するべきではないということです。クリスチャンは、結果を想定して神様の掟に従うかどうか決めるべきではないということです。Sanctified Lifeという本から引用します。「真実のクリスチャンは結果を天秤にかけるために立ち止まることはせず、自分のすることで他の人がどう思うかを考えず、世俗的な観点から物事を考えない。しかし、神の子供として神の栄光を表わすためにどのような働きができるかどうかを考える。」クリスチャンは神様の掟に従った結果を量ろうとしません。わたしたちがよくする間違いです。いつも「何が自分に起きるのだろう?」と考えて、結果を恐れて妥協してしまうのです。
              わたしは心の中で葛藤しながら祈りました。そしてわたしは様々な考えをすべて横に置いて、神様の御手におまかせしようと決めました。もうこれらのことはわたしの問題ではなくなりました。神様の問題となりました。わたしの問題は神様の御心を知り、それをたとえわたしがどこにいても実行することです。すべての問題を神様にお任せしたとき、結果がどうなるかというのは神様の問題です。多くの場合、わたしたちは自分自身で結果を決めようとしています。そしてその中で妥協してしまうのです。
わたしは管理人の責任者に「たとえわたしにどんなことが起ころうとも、わたしは土曜日に働きません。」と言いました。もちろんその責任者は怒って、「お前は無礼なやつだ。せっかくお前を助けてやろうとしているのに。今すぐお前を通報するから荷造りをしろ。お前は隔離された牢屋に入れられる。」と言いました。責任者は武官に話しに行き、帰ってきました。わたしは荷造りを終わらせていましたので、「準備はできています。」と言うと彼は「お前は行かなくていい。」と言いました。「行かなくていいとはどういう意味ですか?」と聞くと「わたしは管理人の責任者で土曜日には休みをもらっている。だからわたしの土曜日の休みをお前にやってわたしが代わりに働こう。」と言ったのでした。それを聞いたとき、わたしたちはこれが奇跡だと分かりました。なぜなら、この責任者がわたしに土曜日の休みを提供する理由はどこにもなかったからです。彼はわたしを全く知りませんでした。そして彼は怒り狂っていました。しかし武官に会いに行って帰ってきたこの短い間に神様は彼の心を変えたのでした。わたしは神様に感謝しました。もしあなたが神様を信頼して誉れをもたらすとき、神様も同じようにあなたに誉れをもたらされるのです。
              わたしは日曜日も含めて毎日朝から晩まで一生懸命に働きました。わたしは床にモップをかけ、それが終わったらすぐ次にすることを探し、わたしの役目を果たしました。わたしは神様にとても感謝していました。またこの管理人の責任者にも感謝していました。一生懸命働いているうちに、わたしはこの責任者と友達になりました。彼は「今まで君のようにこんなに一生懸命働く囚人を見たことがない」と言いました。わたしが掃除している建物は刑務所中で一番きれいな建物になりました。武官はこの建物をこんなにきれいに管理している責任者をとても誇りに思いました。そして責任者はわたしをとても誇りに思いました。そして彼は「2か月ごとに囚人たちはあまり一つの場所に長い間いるといけないから違うステーションに回される。でも君のことをとても気に入った。もし違う責任者のもとへ行ったら君は安息日を守ることはできないだろう。もし良かったら今から武官に頼んでわたしが行くところに君も来られるようにしてもらうけれどいいか?」と言いました。わたしは「はい、お願いします。」と言いました。彼は武官に話しに行き許可をもらってわたしはどのステーションへ行っても同じ責任者のもとで働くことができ安息日を守り続けることができるようになりました。

              わたしたちがこのステーションに移ってきて2週間後、武官がやってきて「Sung Hoon Kang, お前は理髪師として働きにいかなければならない。」と言いました。「いえいえ、何かの間違えです。」と返すと、「いや、これが命令だ。お前は理髪師になれ。」と武官は言いました。「わたしは今まで誰の髪の毛も切ったことがありませんし、ここにいて幸せですし、安息日も守れますし…」と言っても「お前は理髪師にならなければならない」と武官は譲りませんでした。何か理由があって、神様がわたしをこのステーションからほかのステーションに移そうとしていることをわたしは知りました。わたしはただ、神様のお導きに従うしかありませんでした。刑務所の理髪店につくと「どうしてわたしがここに送られてきたか分かりません。わたしには何も経験がありません。」と伝えました。他の人たちは何らかの形で理髪の経験を持っていました。「今から建物を回るから、自分の物を持ってついてきなさい。」と言われました。「わたしは理髪の経験が全くないのですが...」と言っても「まあそのうち学ぶよ」などと言われるだけなので、わたしはただついていきました。

刑務所でのわたしの証 4

わたしの話に戻りますと、数日後ある変化がありました。クリスチャンに対して苦い思いを抱き、わたしに辛く当たってきた人たちが次第に1人ずつ質問してくるようになったのです。「君の神様について教えてくれ。」「君の聖書について教えてくれないか。」すべての牢屋にはボスがいるのですが、ある日わたしの部屋のボスが、「君の好きな聖書の章を読んでくれないか?」と言ってきました。わたしはこれはいい機会だと思い、祈ってから、詩編91編を開いて読み始めました。読み終わると、そのボスは「気に入らない」と言い、もう一つ違う章を読んでくれないかと頼んできました。わたしがもう一章読むと「少しましだ」と言い、もう一章読んでくれと言いました。そして読むと彼はそれがとても気に入ったようでした。ボスは、「毎朝1章、わたしたちに読んでくれないか?」と言いました。わたしは「はい、喜んで読みたいと思います。」と応えました。
囚人たちは様々な質問をしてきました。ある囚人はわたしに、「もし神様が本当に存在するなら、どうして自分がこんな人生のどん底までくることを許したのか?俺は友達を殺して、殺人犯としてこの刑務所に来た。もし神様が本当にいるなら、どうしてわたしがここまでくることを許したのか?」と質問をしてきました。またある日は、ボスがきて私に聞きました。「お前はクリスチャンだけどどの宗派か?」と言うので、「私はセブンスデー・アドベンチストです」と応えました。セブンスデー・アドベンチストと言った途端、彼の中で何かが変わったようでした。彼は何も言わず彼がいつもいる牢屋の隅へ行き、何かを書きはじめました。1時間後、彼は戻ってきて何も言わずに手紙を投げつけてきました。「読んでくれ」と言いました。わたしは手紙を開いて読み始めると、目から涙がでてきました。その手紙は「ずっと昔、25年前、自分は軍にいてトレーニングを受けていた。」と書き始められていました。当時、ボスは20代の青年でした。手紙の続きにはこう書かれていました。
「トレーニングの軍の中にはもう一人の若者がいて、彼は土曜日に働きたくなかったために、死にそうになるまで暴力を振われていた。彼はセブンスデー・アドベンチストだった。その青年はわたしのところにきて証をした。しかしわたしは彼が言うことに耳も傾けず拒絶した。それから、25年間わたしは自分の満足のためだけに生きてきて、ついにこの刑務所にまでたどり着いてしまった。ある日鉄格子が開いて、ある青年が同じ牢屋にやってきた。それはお前だった。お前がこの牢屋に入ってきた途端、わたしは心の中で『この青年はクリスチャンに違いない。』と思った。そして『セブンスデー・アドベンチストであってもおかしくないだろう』と思った。」
ボスは、実際にわたしがセブンスデー・アドベンチストだと分かった時、物が言えないほど驚いたと言っていました。そしてさらに手紙の中で「もしかすると、神様は2度目のチャンスを与えてくださったのかもしれない。この牢屋でもう一度チャンスを与えてくださったのだ。」と書かれていました。
数週間後、わたしは刑務所で労働ステーションに配置されました。それぞれ違うステーションに配置され、毎日12時間働かなければなりませんでした。そしてとても安い賃金をもらいました。わたしは月に約10ドル稼いでいました。ほぼ無報酬で働いているようなものです。わたしは管理人として雇われました。わたしはすぐに安息日の問題にぶつかると分かっていました。管理人として配置されたその日に、わたしはそのステーションの責任者である囚人のところに行って、「わたしはセブンスデー・アドベンチストです。管理人としてわたしは建物の掃除などをしないといけないということは分かっています。しかしセブンスデー・アドベンチストとしてわたしは安息日に働くことはできません。」この責任者である囚人はわたしの顔を見て「お前の名前は何だ?」と言いました。「Sung Hoonです。」と答えると、彼は「Sung Hoon、君は大きな勘違いをしている。」と言いました。「どういう意味ですか?」と聞くと、こう言われました。「お前は自分がどこにいるのか分かっていないのか?ここは刑務所だ。お前は旅行にきているんじゃないし、家にいるわけでもない。お前は刑務所にいるんだ。何をするとか何をしないとかをお前が選択することはできない。囚人であるということは奴隷であるということだ。ただ言われたことをするのがお前の役目だ。安息日だの何だの意味の分からないことを言ってくるのはやめて、仕事に戻れ。」しかし私は彼に、「わたしは自分が囚人であることを知っています。そして刑務所にいることも分かっています。確かにここはとても特別な環境です。しかし、だからと行って急に神様の掟を破っていいことにはなりません。クリスチャンとしてわたしは土曜日に働くことはできません。」と言い返しました。わたしは、そのとき彼が怒り狂ったのを覚えています。彼は「お前に選択肢はない。土曜日にお前は働かなければならない」と言いました。
ここでわたしはもう一つの法則をお伝えします。ヨシュア記24:15です。みなさん暗唱しておられると思いますが読みます。「もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」次の法則は、どんな状況にあってもわたしたちには必ず選択肢があるということです。あなたは自由の選択をもって善悪を判断するキリストの証人なのです。たとえだれと一緒にいても、どこにいても、わたしたちには選択肢があるのです。よく「わたしにはこれ以外選択肢がなかった。」とか「悪魔がわたしをこうするように仕向けた。」などということを聞きますが、多くの場合、人々がこういう発言をする理由は彼らが代価を払いたくないからです。それで「こうするしかなかった」というのです。「彼氏がもし一緒に寝なければ別れるって言われた。こうするしかなかった。」こうするしかかなったのではありません。選択したことにはその代価がついてきます。彼氏と別れることかもしれません。ある人は「もし安息日に働かなければだれがわたしの家族を養うのか?」この厳しい経済状況で現実的な話ですね。「もし安息日のために仕事を辞めたらだれがわたしの家族と子供の世話をするのか?だから安息日に働くしかなかった」しかし、選択肢はあったのです。選択したことにはその代価がついてきます。
話に戻りますと、「お前には選択肢はない」と言われたわたしは、管理人の責任者に敬意をもって、しかし断固としてこう伝えなければなりませんでした。「たとえわたしが奴隷であり、刑務所でこのような特別な状況の中にあったとしても、わたしには選択肢があることをあなたに知っていただきたいです。たとえどんなことがわたしに起きるとしても、わたしは土曜日に働いて神様の掟を破ることはしません。」と。想像できますか?責任者はひどく立腹していました。「今すぐ武官に連絡してお前を通報するぞ。もしわたしが武官に通報すれば、お前は個別の牢屋に閉じ込められ、すべての特権を失う。」と彼は言いました。それを聞いた時わたしは、「自分が今どんな特権をもっているというのだろう?何を言っているんだこの人は。」と思いました。彼が言う特権とは、友達に手紙を書いたり、両親が訪問してきてきたり、また刑務所の売店で買い物をしたりするのが許されていることでした。さらに彼は「お前はこの刑務所から3か月早く解放される特権を失う。」と言いました。それを聞いたとき、わたしは思わず聞き返さずにいられませんでした。「今、3か月早くこの刑務所から出られると言いましたか?」彼は「もちろん、もしこの刑務所で良い態度で過ごしているなら、3か月早く出所できる。」と言いました。
わたしはそれを聞いた途端、今まで自分が経験しなければならなかったすべての事を思い出しました。囚人たちとの辛い時間、そして牢屋のトイレです。そこはトイレと呼べるほどでもないのですが、ドアを開け中に入って閉めると、しゃがむこともできないほど狭く、そこに穴が空いていてトイレをします。さらにそこには蛇口もあって、そこでシャワーをします。ひどく臭うなか、蛇口からの水を浴びます。もちろん暖かいお湯などでませんので、冬にはほとんどの囚人はお風呂に入りません。しかしわたしはシャワーを浴びてからでないと眠れない人なので、蛇口の前に行って5分ほど「Sung Hoon、君ならできる。」と何度も自分に言い聞かせてから、氷のように冷たい水をバケツに汲み、頭からかけます。するとあまりの冷たさに全身が震えはじめるので、すぐに体をさすらなければなりません。あまりに冷たくて痛いほどです。そして食べ物。わたしはビーガンなので、ご飯とのり以外にほとんど食べるものがありませんでした。キムチでさえも海鮮物が入っているので食べることができませんでした。

これらのことを思い出しながら、3か月どころか、もし1日でも早く出られるならどんなことでもしたいと思いました。3か月というとほぼ100日です。「自分はもう充分やってきた。ここにはほかにだれもアドベンチストはいないし、だれにも知られることはない。ここは特殊な場所なんだ。それに、もし自分が土曜日に働かなければだれが働くんだ?」そんな思いがこみ上げてきました。もう一つ大きなことは、わたしはその時ある女性と付き合っていて、彼女に毎週手紙を書いていました。「もしわたしが今罰せられて手紙を書けなくなったら、彼女はどう思うだろう?彼女はどうなってしまうだろう?」様々な疑問が浮かんできました。そしてわたしの両親。「ひと月にたった4回しか訪問できないこの状況はすでに彼らにとってとても辛いのに、もしもう訪問することができないと言われたらどうなってしまうのだろう?」わたしは混乱していました。どうすればいいかわかりませんでした。わたしは神様に祈りました。

2014年6月5日木曜日

マルコ3:19  デボーション

今日の聖句:
マルコ319

それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

十二番目の弟子は、イスカリオテのユダでした。ユダは、誰よりもキリストのそばにいる特権を与えられました。彼は絶えずキリストの行為を見、キリストの言葉を聞き、キリストの働きを共にし、キリストの愛を体験するのでした。イエス様は、ユダの心を全て見抜いておられました。彼が最後に自分を拒んでしまうことも、イエス様は知っておられました。それにもかかわらず、イエス様はユダがそばにいることをお許しになりました。そして最後の最後まで、他の弟子たちに対するのと同じ愛を注がれたのです。

今日の質問:
ユダに大きな恵みが与えられたことは、イエス様がどんな方だと教えていますか?そのユダがイエス様を裏切ってしまったことは、あなたにどんな警告を与えていますか?

今日の祈り:
イエス様、あなたはどんな人にも分け隔てなく恵みを与えてくださいます。あなたの恵みをいつも受けていながら、あなたを拒んでしまうことがありませんように。あなたに心を開かせてください。

もっと深く:
ローマ212;マタイ544, 45;ヘブル42Ⅱコリ61, 2

執筆:山地悟
2014/06/05

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2014年6月4日水曜日

マルコ3:18 デボーション


今日の聖句:
マルコ318

アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、

使徒の名前を1人ずつ呼んでいくイエス様を見て、「おいおい、大丈夫か…」と周りの人たちは思ったかもしれません。たとえば、熱心党のシモンは熱烈な愛国主義者でしたが、元徴税人のマタイはいわばユダヤ人の裏切り者でした。他にも、血の気の早いヤコブとヨハネ、目立ちたがり屋のペテロなど、人格的に問題のありそうな人たちばかり。ふつうに考えれば決して一つになれないようなグループを、イエス様は教会の土台にしようとしておられたのです。

今日の質問:
あなたが今属しているグループのことを考えてみてください(家族、職場、教会…)。全ての人の心を一つにするのは、どれほど難しいことですか?ふつうに見れば一致できないような人たちをイエス様があえて使徒に選ばれたのは、どうしてだと思いますか?

今日の祈り:
イエス様、わたしたちは、自分の力では決して一つになることができません。すべての人が、心に問題を抱えているからです。あなたの愛と恵みだけが、わたしたちの心を一つにすることができます。どうか、弟子たちを一つにしたように、わたしたちもあなたの愛と恵みによって一つにしてください。

もっと深く:
ヨハネ1722;使徒11315;エフェソ21718423;コロサイ31415

執筆:山地悟
2014/06/04

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刑務所でのわたしの証 3

わたしは、翌朝にはもっと良い日がやってくることを望みながらその夜眠りにつきましたが、それは間違いでした。日に日に事は悪化していきました。ある日、わたしが座って何かを読んでいると、わたしの隣にいた囚人が他の囚人と喧嘩しはじめました。怒りのあまりどうすればいいのか分からなくなった彼は、都合よく隣にいたわたしの顔をパンチすることに決めたようでした。彼が拳をあげてわたしの顔をパンチしようとしたその瞬間、神様が仲介してくださり看守がわたしの名前を呼んだのでした。看守はわたしの両親と弟が訪問に来ていると言いました。わたしはその時「自分の家族の前で泣いてはいけない」と心に決めていました。なぜなら家族にとって、わたしが刑務所にいることはすでに辛いことだったからです。しかしわたしは家族の前でぼろぼろに泣き崩れてしまいそうな気もしました。わたしは神様にお祈りしていました。「主よ、どうぞ彼らの前で泣かないように助けて下さい。わたしは彼らの人生をこれ以上つらいものにしたくありません。」と。
ところがわたしが面談室に入り、ガラス越しに両親と弟が訪問してきてくれたのを見た途端、わたしは泣き崩れてしまいました。わたしは5分間しかその部屋にいることが許されていませんでした。わたしの家族は2時間ほどかけてわたしに会いに来てくれていたのですが、その5分間わたしはひと言も話すことができませんでした。彼らが「どうしたのSung Hoon?」と言っていましたが、わたしはただ首を振って泣き続けていました。なぜだと思いますか?それは、自分のことを覚えて、大切に思っていてくれる誰かがいたからです。そして、自分のことを知って愛していてくれる誰かがいたからです。わたしのことを思って訪問してくれた人を見ただけで、わたしの心はちぎれそうでした。わたしはそのとき家族や友達の大切さを知りました。当たり前だと思ってしまうのは簡単なことですね。
どうしてわたしはこの証を伝えているのでしょうか?2つ目の法則を見てみましょう。「どうやったらどんな状況でも神様の掟に忠実であることができるのでしょう?」2つ目の法則は「苦難は、イエス様に従うと決意したときに与えられる賞である」ということです。テモテへの手紙第二3:12を開いてください。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」と書いてあります。どれだけの人が迫害を受けるのですか?「皆」です。ここには「ある人は迫害を受けます」とは書いていません。聖書は、一人の例外もなしにみんな迫害を受けると書いてあるのです。痛みと苦しみはクリスチャンの信仰生活のさだめです。わたしたちは痛みと苦しみを避けてクリスチャンであることはできないのです。わたしたちは、多くの人々が間違った動機でクリスチャンになる時代に生きています。しかし聖書はとても明確に、わたしたちが歩んでいる道は簡単な道ではないと伝えています。苦しみや痛みが必ず訪れます。試練がやってきます。
では、なぜ神様はクリスチャンが苦しみを経験することを許されるのでしょうか?苦難は神様の御計画の中で大切な役割を果たしています。苦難はわたしたちの信仰とイエス様に従う動機を確かめます。例えばすべてのことが上手くいっているとき、良い成績をとって良い仕事に就いて、かっこいい車に乗って、素敵な家族がいて、良い友達がいて、そんな時に神様をほめたたえ、クリスチャンでいて良かったと思うことは簡単です。しかし、もしある日突然起きて電話でこんなニュースを伝えられたらどうでしょう?「あなたのお兄さんが、(もしくは両親)が自動車事故で亡くなりました。」と。また健康診断で病院に行くとがんを発見され、もう短い間しか生きられないと突然医師に告げられたらどうでしょう?試練や苦難が立ち向かってくるとき、そのときにわたしたちの信仰は本当に試されるのです。どんな人でも物事が上手く運んでいるときは神様をほめたたえること、もしくはほめたたえるふりができるでしょう。しかし本当に問うべき事は「すべてが間違った方向へ向かっているように思えるとき、あなたはそれでも神様に従いたいと思いますか?そして神様を同じように愛せますか?」ということです。
各時代の希望224ページには「天が人類に与えることができるすべての贈り物の中でも、苦しみを通してのキリストとの交わりは最高の名誉である。」最高の名誉は何ですか?苦しみの中でのキリストとの交わりです。わたしたちにはたった一度のチャンスが今生きている人生によって与えられています。たった一度です。天使すらわたしたちに与えられているチャンスを持っていないのです。ほとんどの人が神様に反抗している中、そして罪の色に塗られている世界の中で、立ち上がって苦しみを受けてでも神様に忠実であること。それができるのはたった一度、この人生においてしかできないことです。天使でさえ、神様のために立ち上がるという特権を持っていないのです。しかしわたしたちはその特権を持っています。特に若い人たちに言います。わたしたちは選ぶことができます。神様は何も押し付けようとしません。しかしあなたはこの与えられた人生の中で、すべての状況において神様に忠実であることを選ぶことができるのです。そしてこの人生以外で、わたしたちは二度とチャンスが与えられないのです。この罪深い環境の中で神様に忠実であること、そしてイエス・キリストが苦しまれた同じような苦しみを経験することはわたしたちの特権であります。