2012年4月26日木曜日

ジャマイカの女性

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
     マタイによる福音書11:28


            この前、ある大学の教授が授業でこんな話をしていました。この教授はジャマイカ生まれで、ジャマイカの言い伝えをたくさん家族から聞いていたそうです。そのなかから、一つのお話を教えてくれました。
            ジャマイカの女性が昼間に町を歩いていました。彼女は市場に買い物に行った帰りで、頭の上のかごには野菜や果物など、重たいものがたくさん入っていました。ある町の人が自動車でその女の人のそばをとおりかかりました。そこでその人は重たそうなかごを頭にのせている女性を見て、「どこまで行かれますか?そこまでわたしが車で送っていきましょうか?」と聞きました。その女性は「ありがとうございます。それではぜひお願いします。」と答え、車に乗りました。ところが、女性は車の中でも頭のなかにのっかっている重たいかごを下ろそうとせず、そのまま目的地まで送っていってもらったそうです。
            このお話はわたしたちが神様に「助けてください」とおねがいするときに見られる態度なのかもしれません。神様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう」とマタイによる福音書11章28節に、そして「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」とヨハネの福音書14章27節に書いてあるように、神様のもとに来た人だれにでも、心の休息、そして平和を約束しておられます。ところが、もしわたしたちが神様のもとに助けを求めたとしても、このジャマイカの女性のように重荷を下ろそうとしないのなら、本当に休むことはできません。今、悩んでいること、つらいこと、仕事や学校でやらなければいけないこと、家族のことなど心配で心の重荷になるようなことがたくさんあると思います。それをすべて神様の前におろして助けを求めてください。必ず平和な心が与えられるでしょう。そして心が平和なとき、ストレスも軽減されているため、もしやるべきことや現状が変わらなくても、もっと効率的に物事が進むはずです。ストレスの多い毎日ですが神様の平和を求めて、心にお休みをあげてください。

森春香
2012年4月26日


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2012年4月20日金曜日

ダニエル書5章-前半


 ダニエル書5章の前半について解説します。1-4章の記事を読んでいない方は、そちらを先に読むことをお勧めします。

  ベルシャザル王は、その大臣一千人のために、盛んな酒宴を設け、その一千人の前で酒を飲んでいた。酒が進んだとき、ベルシャザルは、その父ネブカデネザルがエルサレムの神殿から取ってきた金銀の器を持ってこいと命じた。王とその大臣たち、および王の妻とそばめらが、これをもって酒を飲むためであった。そこで人々はそのエルサレムの神の宮すなわち神殿から取ってきた金銀の器を持ってきたので、王とその大臣たち、および王の妻とそばめらは、これをもって飲んだ。すなわち彼らは酒を飲んで、金、銀、青銅、鉄、木、石などの神々をほめたたえた。
ダニエル書5章1-4節

 この時代のバビロンの常識として、どんな理由があろうと、神殿の物や聖なる物で遊んではいけませんでした。聖なる物に手を出すべきではないと知っていながらも、ベルシャザル王がそれに手を出してしまったのは、おそらく、酒を飲んで酔っ払っていたからでしょう。酒を飲み酔うと、この王のように取り返しのつかない愚かな事をしてしまいます。あなたは酒を前にしたとき、どうしていますか?今度、酒があなたの前に出てきたら、神様との関係を汚してまでそれを飲む価値があるのかどうか、よく考えてみてください。王は酒に酔い、悪いと知りながらもどうしようもない過ちを犯してしまいました。聖なる物を粗末に扱い、ただの物を神としてあがめた王は、神様の怒りを招くことになったのです。

 すると突然人の手の指があらわれて、燭台と相対する王の宮殿の塗り壁に物を書いた。王はその物を書いた手の先を見た。そのために王の顔色は変り、その心は思い悩んで乱れ、その腰のつがいはゆるみ、ひざは震えて互に打ちあった。
ダニエル書5章5-6節

 この「手の指」は、もとの言語によれば「手首から下」と言う解釈もできます。つまり、突然手だけが現れて、壁に文字を書き始めたのです。そんなのを見たら誰だってびっくりします。 

 ベルシャザル王は、王として全く駄目な人間でした。政治も戦争も、残念な間違いと敗北ばかりでした。そして、王は宴会と酒と女でへらへらしながら、国の深刻な現実から逃げていたのです。その時、この「手」は出てきたのです。王はその「手」と、意味不明な文字に恐怖に陥りました。王はバビロンの頭のいい人たちを集めて、壁に書かれた文字を読ませようとしましたが、彼らがそれを解き明かす事はできませんでした。

 「わたしは、知者、法術士らを、わが前に召しよせて、この文字を読ませ、その解き明かしを示させようとしたが、彼らは、この事の解き明かしを示すことができなかった。しかしまた聞くところによると、あなたは解き明かしをなし、かつ難問を解くことができるそうだ。それで、あなたがもし、この文字を読み、その解き明かしをわたしに示すことができたなら、あなたに紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけさせて、この国の第三のつかさとしよう」。
ダニエル書5章15-16節
 
 文字を読んで解き明かせる者にはバビロン王国で三番目の地位を与える、と王は約束しました。ところで、なぜ三番目なのでしょうか?それはこの時、バビロンがベルシャザルと、彼の父のナボナデウスによって治められていたからです。実はベルシャザルはネブカデネザル王の孫です。ダニエル書5章2節に「…ベルシャザルは、その父ネブカデネザルが…」とありますが、それはネブカデネザルがベルシャザルの父であったという意味ではありません。ここで使われているへブル語の「父」は「先祖」という意味も持っています。すなわち、ネブカデネザルはベルシャザルの先祖であった、ということを言っているのです。ベルシャザルの父、つまりネブカデネザルの息子がナボナデウスです。よって「第三のつかさ」とはナボナデウスとベルシャザルのすぐ次の位を意味していたのです。

  
 5章は1章から約50年経っています。50年間もバビロンにいながら、食事や他の誘惑にも負けず、ダニエルは神様に忠実に従い生きてきました。そして、ネブカデネザルの夢の解き明かしをしたダニエルは、今、ベルシャザルの前に連れてこられたのです。ダニエルは飾り物や権力などの報酬を断り、謎を解き明かすと言いました。

 ダニエルは王の前に答えて言った、「あなたの賜物は、あなたご自身にとっておき、あなたの贈り物は、他人にお与えください。それでも、わたしは王のためにその文字を読み、その解き明かしをお知らせいたしましょう。王よ、いと高き神はあなたの父ネブカデネザルに国と権勢と、光栄と尊厳とを賜いました。彼に権勢を賜わったことによって、諸民、諸族、諸国語の者はみな、彼の前におののき恐れました。彼は自分の欲する者を殺し、自分の欲する者を生かし、自分の欲する者を上げ、自分の欲する者を下しました。しかし彼は心に高ぶり、かたくなになり、ごうまんにふるまったので、王位からしりぞけられ、その光栄を奪われ、追われて世の人と離れ、その思いは獣のようになり、そのすまいは野ろばと共にあり、牛のように草を食い、その身は天からくだる露にぬれ、こうしてついに彼は、いと高き神が人間の国を治めて、自分の意のままに人を立てられるということを、知るようになりました。ベルシャザルよ、あなたは彼の子であって、この事をことごとく知っていながら、なお心を低くせず、 かえって天の主にむかって、みずから高ぶり、その宮の器物をあなたの前に持ってこさせ、あなたとあなたの大臣たちと、あなたの妻とそばめたちは、それをもって酒を飲み、そしてあなたは見ることも、聞くことも、物を知ることもできない金、銀、青銅、鉄、木、石の神々をほめたたえたが、あなたの命をその手ににぎり、あなたのすべての道をつかさどられる神をあがめようとはしなかった」。
ダニエル書5章17-23節

 ベルシャザルは神様のこと知っていたはずです。ネブカデネザル王の孫として、1章、2章、3章、4章に書かれている神様の奇跡や行いを知っていたはずなのです。4章で、ネブカデネザル王が神様の忠告を無視して高ぶったせいで、頭が狂った獣のように7年間暮らしていたこと、そして7年の終わりに、ネブカデネザルが神様を唯一の神であると認め、正気に戻り、神様の栄光のために生きると決心した事も知っていたはずなのです。それにも関わらず、ベルシャザルは飲みたい放題、やりたい放題、神様の忠告を無視して、真実に逆らっていたのです。

 ベルシャザルの人生から学ぶべき事が二つあります。一つは、我々の親、祖父母や人生の先輩の話を素直に聞き、同じ間違いを繰り返さないように正しく生きることです。もしベルシャザルがネブカデネザルの経験を真面目に学んでいたなら、こんな愚かなことはしなかったはずです。二つ目は、今の自分のことだけを考えるのではなく、永遠の天国という現実を常に考えて生きるべきということです。今の時代、この世界には誘惑が溢れています。ベルシャザルのようにこの世界の物に囚われ、神様を無視してはいけません。飲み会、合コン、デート、映画、ドラマ、テレビ、インターネット等のこの世のものから少し離れてみて、神様と天国という現実についてもっと考えてみてください。神様はあなたの事を死ぬほど愛しています。現に、神様はあなたのために十字架にかかって死なれ、そしてよみがえられました。あなたを愛している神様は、天国であなたと一緒に永遠に暮らしたいのです。天国とこの地上の人生を比べたら、今の人生は非常に短く、小さく、そして不安定です。ですから、そんなものとは比べ物にならない程大きな神様と天国のことをもっと学び、それを周りの人に分かち合っていきましょう。

次回は5章後半、壁に書かれた文字の解釈について詳しく書きます。

イエスキリストに全てを委ね、彼と共に生きましょう。

04/20/2012
作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真

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ダニエル書4章

 今回は、4章から2つの興味深いポイントを紹介して、簡単に説明してみたいと思います。ですから、4章は後で自分でゆっくり勉強してみてください。
 
ポイント1
 実は、4章はネブカデネザル王が書いたもので、王の人生のクライマックスが描かれています。4章の終わりには、王が完全に神様を認め、そして受け入れます。おそらく、王はダニエルたちの日々の行いに興味を持ち、彼らの神様への忠誠に尊敬を抱いていった結果、神様を自分の神様として受け入れたのでしょう。神様がダニエルたちを通して、偉大なるバビロンの王を真実へと導く事ができたのですから、もちろん、神様が私たちをそのように用いることもできるはずです。今日も、神様は私たちを通してこの世界の人々を真実へと導かれようとしています。今、私たちがするべき事は目の前にあることに真剣に取り組むことです。それがどんなに小さなものでも、神様の御心のままに行う必要があります。小さな責任を果たすことにより、いつか大きな責任を任された時に、それを果たす力が与えられるのです。


ポイント2
ダニエル書4章35節(新共同訳では4章32節)とイザヤ書40章17節、イザヤ書43章13節を読み比べてみてください。

地に住む民はすべて無き者のように思われ、天の衆群にも、地に住む民にも、彼はその意のままに事を行われる。だれも彼の手をおさえて「あなたは何をするのか」と言いうる者はない。
ダニエル書4章35節 (新共同訳 4:32)

主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる。
イザヤ書40章17節

わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。
イザヤ書43章13節

 イザヤ書40章17節はダニエル書4章35節(新共同訳 4:32)の前半と、イザヤ書43章13節はダニエル書4章35節(新共同訳 4:32)の後半と似ていると思いませんか。元の言語で見比べてみると、もっとそっくりです。ある学者たちは、ネブカデネザル王はダニエルから聖書の事を少し学んでおり、ダニエルと一緒に勉強したイザヤ書の事を思い出して、この言葉を書いたのだと言います。もしそうだとしたらすごいとは思いませんか。私たちが誰かと聖書研究をすることで、神様はその誰かの心に真実の御言葉を植え付けられるのです。私たちもダニエルのように聖書を勉強して、自信を持って他の人に聖書を伝えることができるように神様に祈り求めましょう。


 次回は、ダニエル書5章について説明します。それまで、日々お祈りと聖書勉強をがんばっていきましょう。

04-20-2012
作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真

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2012年4月19日木曜日

“死”とは何?

多くの人は死というのを人生の終わりかのように見ています。死というのは不思議な理解できないものかの用に扱ってしまっています。しかしですね、死を理解しないまま人生を生きて行くのは不安で大変です。なぜなら、人間で居る限り、この世界に居る限り、死というものに必ず友達、家族、あるいは自分自身が影響されます。いったい死とは何?聖書には死についてどう書いてありますか?
実は、二つの死が在ります。
1.ほぼみんなが経験する第一の死は眠りの用なものです。でも、第一の死の後はまだ希望があります。
2.永遠の死は神様から離れ、命の手綱を永久になくす事です。この第二の死からは起きる事はできません。第二の死の後は希望は一切ありません。
イエス様は第二の死のために十字架にかかって死んでくださったのです。本来なら、罪の罰は第二の死です。しかし、イエス様は、我々人間のために第二の死を経験し、そして3日後によみがえったのです。あなたも、イエス様を救い主として受け入れれば、第二の死さけて、永遠の命を得る事ができます。ヨハネ3章16節では、キリストを信じれば、滅びない、すなわち第二の死を経験しないと言う意味です。

“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”ヨハネによる福音書3章16節

第一の死についての聖書からの文章
ヨハネによる福音書11章をぜひ全部読んでみてください。5分か10分ぐらいでヨハネによる福音書11章を読めるはずです。11章では、ラザロと言う人が病気で死んで4日後にイエス様は命へよみがえらしたのです。そこで、イエス様が死について言った事が記録されています。
“そう言われたが、それからまた、彼らに言われた、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」。すると弟子たちは言った、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」。イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。”
ヨハネによる福音書11章11-14節

イエス様はここで、ラザロの死を眠りといっています。しかし、弟子たちが理解しなかったので、ラザロは死んだのだとはっきり最後に言いました。ですから、第一の死は眠りのようなのです。他にも聖書を探っていけば、いろいろと死について書いてありますから、ぜひ自分の時間で勉強してみてください。

第二の死についての聖書からの文章
“耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』”ヨハネの黙示録2章11節

“この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。”ヨハネの黙示録20章6節

“それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。”
ヨハネの黙示録20章14節

今は、聖書に天国に居るとはっきり示されている人たち以外は、人間みんな地球のどこかで眠っていると考えていいのです。(モーセ、エノク、とエリヤは特別に天国にもういると聖書に示されています。)
しかし、残りの人たちはイエスキリストがまた再び雲に乗って、大勢の天使たちと地球へ来る時に、地球上すべての人間がよみがえり、永遠の命か第二の死、どちらかの運命へといきます。キリストを救い主として受け入れれば、永遠の命はあなたのものです。
でも、イエスキリストの事を知る機会がないまま、死んでしまった人たちはどうなるの?もちろん直接イエスキリストの事を知るチャンスがなかった人も天国に行けます。自分に与えられた真実通り生きた人たちならば、神様と一緒の永遠の命, 天国へと歓迎されます。ですから、与えられた真実通り生きていきましょう。そして、あなたはこうしてこの記事をよんだからには、キリストを救い主として受け入れて生きていきましょう。
要するにですよ、死というのはただの眠りのような物です。キリストを救い主として受け入れれば、永遠の命へと目覚める希望を手にする事ができます。あなたは真実を貫きたい人間ですか?真実を貫きたい人間ですなら、イエスキリストと言う希望を伝えましょう。文化、人種、年齢、性別、学歴関係なく、共に真実を貫く者として、イエスキリストを人に伝えていきましょう。死と言うものは非常に悲しいものですが、キリストを信じている限り再び愛するものと再開する希望があります。ですから、今まだチャンスがある時にキリストを受け入れ、そして、周りの人たちに第二の永久の死から助けてくださったイエスキリストと言う希望を伝えていきましょう。
真実を貫く自身がありませんか?心配無用。イエスキリストから真実を貫く自身を求めましょう。常にイエスキリストと言う希望を心に持って真実を貫いて、人生がんばりましょう。
作者:福田ダニエル

2012年4月18日水曜日

シャボン玉


「目の見えない人を導いて知らない道を行かせ
通ったことのない道を歩かせる。
行く手の闇を光に変え
曲がった道をまっすぐにする。
わたしはこれらのことを成就させ
見捨てることはない。」            イザヤ書42:16


         みなさんは最近シャボン玉を見たことがありますか? シャボン玉は色とりどりの光を反射させて不思議な世界をくりひろげてくれると思います。風に乗って大空に飛んでいくシャボン玉を見ているとなんだかわくわくします。先週の安息日の午後にお天気もよかったので友達とお散歩に行きました。部屋にシャボン玉があったのでそれも持っていくことにしました。ゆったりと歩き、どんな一週間だったかなどと話ながら、シャボン玉を吹いている友達の写真を撮っていました。風に吹かれていくシャボン玉の写真を撮るのは思ったよりと難しく、何度も友達にシャボン玉を吹いてもらいました。しばらく歩いているとトンネルにさしかかりました。そこで撮った写真がこれです。


トンネルの暗闇のなかではシャボン玉の色がよく見えて、外でみるよりももっときれいに見えました。
この写真を後で見ているときにこんなことを思いました。たとえばもしこのシャボン玉が神様、背景は自分の人生だとしたら、どんな御言葉があてはまるだろう?と考えました。 シャボン玉は野外を飛んでいるときでも、トンネルの中でもおなじシャボン玉でした。でも背景が暗く変わったことでもっときれいに見えました。「神はいにしえからいまし変わることはない。」と詩編55編20節に、そして「まことに、主であるわたしは変わることがない。」とマラキ書3章5節に書いてあるように、神様の性質は変わることがありません。ある日は愛の神様で、ある日はいじわるな神様ということはなく、毎日、これからもずっと神様はわたしたちを愛しておられ、一番よい道へと導きたいと思っておられます。変わるのは神様以外のもの、つまり自分たちも含めたこの世界のものです。この変化し続ける毎日のなかで物事がうまくいくときもあれば、トンネルのなかのようにうまくいかず落ち込むこともあります。しかし変わることのない神様はわたしたちがそのトンネルのような暗闇にいても、そこから導きだしてくださるとイザヤ書42章16節に書いてあります。
わたしはいつも変わらない神様に頼って生きていきたいです。そして、暗闇ではシャボン玉がよく見えたように、わたしたちは困ったときに「神様助けて!」と神様の必要をもっと感じることが多いと思います。しかし、シャボン玉は光の中でも存在しているように神様もわたしたちの日常がうまくいっているときにも近くにいてくださるということに気がつくと、もっとよい神様との関係ができるのではないでしょうか。日々神様にお祈りしてお話してみてください。

森春香
2012年4月18日



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2012年4月13日金曜日

炎の神様??


ある人たちは地獄と聞いて、罪を犯した人たちが永遠に炎の中で燃やされる事をイメージします。しかし、神様が本当に愛の神様であるのなら、この地球での短い人生で犯した罪の罰として、罪人たちを炎の中で永遠に燃やすことは不公平で極端だと思いませんか?本当に罪人は地獄で永遠に燃やされ続けるのでしょうか。地獄にいる人々が炎に燃やされているのを知っていながら、救われた人々は天国で楽しく生きることなどできるのでしょうか?聖書は地獄について何と教えているのでしょう。

実は聖書によると、罪人たちが永久に燃えることはないのです。罪人たちはいずれ炎に負け、消えてしまうのです。なぜかと言いますと、神様は神様を受け入れた人、つまり義人だけに永遠に生きる権利と力を与えたからです。罪人が永遠に炎に燃やされ生き続けることはないのです。

世の終わりの時に裁判があります。神様が一人一人の人生を見て、天国に入るのにふさわしいかを決めるのです。天国に入る権利はイエス・キリストを信じて、救い主として受け入れる事です。そして、キリストの約束と力によって天国はあなたに現実のものとなるのです。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネ3章16節

このようなたとえ話があります。罪はガソリンで、神様は炎です。炎をガソリンに近づけたら、ガソリンに引火します。ガソリンを持ったまま火に近づくのは危険極まりないことです。同じように、罪を持ったままの私たちを神様が完全に抱きしめる事はできないのです。神様はあなたの事を愛しており、すぐにでもあなたのことを抱きしめたいのに、それができないのです。

罪とは、神様と聖書に反する事を行う事です。罪を捨てるのは決して簡単なことではありません。それは自分一人でできることではなく、神様の助けが絶対に必要になります。罪を捨てたいと思うのなら、神様に助けを求めて下さい。神様が助けてくださいます。すぐに罪から離れることはできないかもしれませんが、それでもあきらめずに助けを求め続けるのならば、神様はあなたに罪を捨てる勇気と信仰をくださいます。常に真実のために生きる、という輝かしい人生をあなたに与えて下さるのです。今、ガソリン(罪)を捨てて愛の炎である神様と共に生きる決心をしましょう。

わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。

ヘブル人への手紙12章29節

ガソリン(罪)を捨てると決心したら私たちはどうなるのでしょうか。炎の神様に焼かれずに一緒に暮らす方法は自分も炎の一部になる事です。罪を捨てると決心したのなら、私たちはイエス・キリストの力によって愛と真実のために燃える(生きる)事ができるのです。

あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。

イザヤ書43章2節

ダニエル書3章で、三人の若者は金の像に拝まかった結果、ネブカデネザル王に燃える炉の中へ投げこまれてしまいました。しかし、三人は焼け死ぬどころか火傷一つしませんでした。なぜなら、三人は日々神様と共に人生を歩んでいたからなのです。彼らは既に、神様と一緒に燃えて(生きて)いたのです。もっと詳しい話はダニエル書3章をご自分で読んでみて下さい。

シオンの罪びとは恐れに満たされ、おののきは神を恐れない者を捕えた。「われわれのうち、だれが焼きつくす火の中におることができよう。われわれのうち、だれがとこしえの燃える火の中におることができよう」。正しく歩む者、正直に語る者、しえたげて得た利をいやしめる者、手を振って、まいないを取らない者、耳をふさいで血を流す謀略を聞かない者、目を閉じて悪を見ない者、

イザヤ33章14,15節

イエスキリストをあなたの救い主として心から受け入れ、信じるのならば、私たちは炎に燃やし尽くされる事はないのです。しかし、ガソリン(罪)を持ったままでは、私たちは焼き尽くされてしまいます。先ほど書いたとおり、罪人は永遠に燃やされ続けるのではありません。ガソリン(罪)と共にこの世界から完全に消え去るまで燃えるのです。罪がこの世界から跡形もなく消え去る事が本当の地獄なのです。焼き尽くされずに、炎(神様)と共に永遠に燃え続ける(生き続ける)のはキリストを救い主として受け入れ、真実のために生きる者たちです。神様と共に愛と真実と喜びに永遠に生き続ける場所こそが天国なのです。永遠に炎の中で燃えるのは、罪人ではなくて、義人です。あなたは愛の炎であられる神様と永遠に暮らす準備はできていますか?



04/12/2012

作者:福田ダニエル

編集者:品末拓真



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磁石の神様と私

“次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。”
ローマ3章10,23-24節

磁石にはPositive (+)とNegative(-)が在ります。(+)と(-)がくっ付きます。しかし、(+)と(+)を無理やり押したら一緒になりますが、いずれ反射して離れてしまいます。同じように、神様が(+)だとします。そして、私が(-)だと認めない限り、神様とくっ付きません。私の自分の罪を認め、自分の弱さ、間違い、不完全さを認めて、初めて神様とくっ付く事ができるのです。逆に自分は(+)と言い張っていると神様とはくっ付きません。自分は正しい、大してひどい罪もしてないし、ひかくてきに強いし、神様の助けなしで義人になれると言ってたら、神様とくっ付きません。この磁石の世界も永遠には続きません。いずれは、裁判が起きます。(-)と認める人たちは、神様に完全にくっ付き、支えられ、永遠の命をもらいます。そして、(-)と認めないで、自分は(+)だと言い張って、神様に反射して、抵抗ばっかりするものも居ます。いずれは、この抵抗にも終わりが来ます。抵抗ばっかりして、神様にくっ付かない者は、永久にくっ付かないようになってしまいます。反射してばっかりいると本当に、命の手綱である神様から永久に引き離されて、永久にくっ付くチャンスを失ってしまいます。ですから、今、まだ時間あるときに自分は(-)だと認めて神様にくっ付きましょう。素直に、神様なしでは、幸せに生きていけないと認めましょう。
                キリストが今度地球に帰って来られる時に、最後の裁判が起きます。神様とくっ付くと決めたものは、永遠にくっ付き二度と神様から離される事はありません。喜び、愛、真実、希望、平安、楽しさ、と笑いで満ちあふれた天国での永遠の命です。一人でも多く、神様とくっ付くと決意する人が増えるようにと日々祈っています。共にがんばりましょう。

04-08-2012
作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真

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2012年4月11日水曜日

三度の裏切り、三度の質問



三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることをあなたはよく知っておられます。」
ヨハネによる福音書21:17

            イエス様が十字架にかかって死なれたあと、三日後に復活されます。そして弟子たちの前に現れます。イエス様のことを三度も知らないと言って裏切ってしまったペトロにもイエス様は復活したあとに会われました。ヨハネの福音書21章にその光景が描かれています。ペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち、そのほか2人の弟子たちがティベリアス湖に夜中魚をとりにいきます。ところがその晩は魚を1匹もつかまえられませんでした。夜明けのころに岸に復活されたイエス様がたっておられ、網をいままでおろしていた反対側、右側に打ってみなさいと言われました。そのとき弟子たちはイエス様だとは分かりませんでしたが、とりあえず右側に網を打ちました。すると網を引き揚げることができないほどの魚がとれました。そこで彼らは「イエス様だ!」とわかりました。 
            このあと岸辺に上がり、炭火を囲んでイエス様と弟子たちは朝ごはんを食べます。死んでしまったと思っていたイエス様がこうして目の前に現れて一緒に朝ごはんを食べられて弟子たちはどんな気持ちだったでしょう? 朝ごはんが終わるとイエス様はこんな質問をペトロにします。「ヨハネの子シモン、[ペトロ]、この人たち以上にわたしを愛しているか。」 そしてペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と言います。イエス様はヨハネの福音書2:25に「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」とあるように人の心を知っておられます。それならなぜこんな質問をしたのでしょう? そして1度だけではなく、また「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と言われ、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えます。そしてさらにイエスは三度目に「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と言われます。ペトロは三度もイエス様が自分の心をわかっておられるはずなのに愛しているかなどと聞かれて悲しくなります。 なぜイエス様は三度もペトロに「わたしを愛しているか。」と質問したのでしょうか?
            この三度の「わたしを愛しているか」というイエス様の質問はペトロの三度もイエス様のことを「知らない」と裏切ってしまったことに関係があると思います。「愛」の反対は「憎しみ」ではなく、「無関心」だということを聞いたことがあります。その人との関係すら否定するような無関心「知らない」と言うことは愛というものとかけ離れています。 ペトロが三度もイエス様を知らないと言ってしまったことを、イエス様は「わたしを愛しているか。」と三度ペトロに聞くことでペトロを責め立てることもなく、ただ取り消そうとしておられるのではないでしょうか。
            この話を聞くとき、わたしは、イエス様は神様だけれども、人との関係を大切に思っていて、人間の失敗を一緒に解決したい、助けたいと思っておられるのではと思います。そして、イエス様を愛してほしいと強く願っているのと同時に、それを強制されることなくわたしたちがイエス様を愛することを自主的に選んでほしいという思いが伝わってきます。
            みなさんはこのイエス様の愛にどうこたえますか? 

森春香
2012年4月11日


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2012年4月8日日曜日

ダニエル書2章-鉄と粘土

ネブカデネザル王が夢の中で見た像の説明は、「ダニエル書2章―後半」の記事をお読みください。この記事では「鉄」の次に来る「鉄と粘土」について詳しく解説します。

605BC-539BC バビロン -金の頭
539BC-331BC メデアとペルシャ -銀の胸と両腕
331BC-168BC ギリシャ -青銅の腹ともも
168BC-476AD ローマ -鉄のすね


あなたはその足と足の指を見られましたが、その一部は陶器師の粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします。しかしあなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、その国には鉄の強さがあるでしょう。その足の指の一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。あなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、それらは婚姻によって、互に混ざるでしょう。しかし鉄と粘土とは相混じらないように、かれとこれと相合することはありません。

ダニエル書2章41-43節

「一部は鉄」、「一部は陶器師の粘土」とは一体何のことでしょう?「一部は鉄」という事は、四つ目のローマ王国の続きである事を示しています。では粘土とは何を意味するのでしょうか?

されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。

イザヤ書64章8節(新共同訳は7節)


聖書によりますと、神様は陶器師で我々は粘土です。我々というのは神様に従う人たち、すなわち教会の事です。


「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。

エレミヤ18章6節


ここでも粘土という言葉が用いられています。「イスラエルの家」とは、ユダヤ人のことです。要するに神様についていく人たちであり、今でいう教会のことなのです。


しかし、ここで一つ問題があります。聖書はもともとヘブライ語とギリシャ語、アラム語で書かれました。ダニエル書2章はアラム語で書かれました。そして、元の言語であるアラム語でダニエル書2章41-43節を読んでみると、ただ「粘土」とは書かれていません。実は「泥っぽい粘土」と書かれているのです。なぜか日本語に翻訳された時、「泥っぽい」という表現が消えてしまっていますが、もとの言語では「泥っぽい粘土」とはっきり書かれているのです。そして「粘土」が教会であるということは、「泥っぽい粘土」は汚れた教会を指しているのです。神様の掟と真実に反する教会の事です。その教会は神様の御言葉をねじ曲げて、それでも神様の教会だと言い張るのです。


鉄と粘土(泥っぽい粘土)はローマ国と教会の合体を意味していたのです。つまり、法王権のことです。

悲しいことに、多くの人々は「泥っぽい粘土」、つまり汚れた教会だとは知らずに法王権に従っています。彼らの多くは真面目で、優しくて、愛にあふれているのです。しかし、泥の中に居たままでは、彼らはいつか溺れて沈んでいってしまいます。ですから、我々教会はイエスキリストの使いとして、聖書の真実とキリストの愛を伝えるべきなのです。今日から、神様と聖霊の力によって真実と愛を宣べ伝えて行きましょう。


主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。

詩篇40章2節(新共同訳は3節)


主イエスキリストこそが我々の岩です。泥っぽい粘土ではなく、岩、すなわちイエスキリストを土台とした教会の一部となりましょう。日々お祈りをして、聖書をしっかり勉強していれば、必ずその教会を見出す事ができます。法王権についてはもっと詳しくダニエル書7章の時に説明します。

04/08/2012
作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真


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私たちのヒーロー


神様と私達の関係を表した感動的な動画があり、皆さんにも見てもらいたいと思ったので、翻訳しました。



1992年、
夏のバルセロナオリンピックでデレク・レドモンドという若い男が
400m走の準決勝で勝つと期待されていた。
*
ところが、競技の最中、ゴールラインの250m前で悲劇が訪れます。
レドモンドのハムストリングは裂け、肉離れを起こしたので、
彼は足を引きずりながら止まり、そして地面に倒れてしまったのです。
*
しばらくして、救急隊員が彼に近づき、安全な場所へ運ぼうとしました。
*
しかし、レドモンドは激痛の中、隊員の反対を押し切り、
足を引きずりながらも、またトラックに沿って走り始めました。
*
そんな中突然、観客の中にいた大きな男がトラック上に飛び出てきました。
レドモンドの父親でした。
*
「息子よ、お前はもう走らなくていいのだよ。」
父親は泣いている息子に駆け寄って伝えました。
しかし、息子は「いや、俺は走る。」と言ったのです。
そして父親はこう返したのです。
「よし。それなら二人で一緒にこのレース終わらせるぞ。」
父親は息子の肩を腕で優しく囲んで、歩くのを助けてあげた。
*
ゴールラインの少し前で父親は息子を一人で歩かせました。
そして観衆6万5千人のスタンドオベーションと共に
デレク・レドモンドは長い400m走のゴールを切ったのである。
*
レドモンドは一位をとることは出来ませんでした。
しかし、彼は自分に与えられたレースを走りきったのです。
痛み、涙をこらえながら、彼はすべてを尽くしました。
自分の息子が倒れた時に、駆け寄って助けた父親の愛はとても強いものでした。
何が父親に観客席からを立って、
トラック上にいる息子を助けさせたのでしょう?
*
それは父親の子供の苦しんでいる顔でした。
息子は痛みで苦しんでいた。だけどゴールを切りたかった。
それだから父親は息子に駆け寄って
与えられたレースを走りきるために助けてあげたのです。
*
私たちクリスチャンが考える神様はこの父親のようだと言えます。
私たちが痛みに苦しみながらも人生を歩む時、
神様は私達を取り囲み助けてくれるのです。
*
あなたはどうですか?
あなたのレース(人生)はどうですか?
痛みの中にいますか?
あなたは何かをあきらめそうな状態ですか?
神様はあなたにいい人生を送っていいゴールを切ってほしいと願っています。
彼はあなたを愛しているからです。
あなたも神様に心を開いてみませんか?

西野貴其
2012年4月8日




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ダニエル書3章後半

是非ダニエル書三章前半の記事をお読みになってからこの記事をお読みください。
さて、ネブカデネザル王は三人のユダヤ人が像に拝まないと聞いて怒りました。

“そこでネブカデネザルは怒りかつ憤って、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを連れてこいと命じたので、この人々を王の前に連れてきた。ネブカデネザルは彼らに言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴよ、あなたがたがわが神々に仕えず、またわたしの立てた金の像を拝まないとは、ほんとうなのか。あなたがたがもし、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くときにひれ伏して、わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」。”
ダニエル書3章13-15節

ネブカデネザル王は、この三人にもう一度チャンスを与えました。本来ならばすぐに火の燃える炉に投げ込まれてもおかしくないのですが、王はチャンスを与えたのです。しかし、それでも三人は心を変えずに神様のために立ち続けました。

“シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。”
ダニエル書3章16-18節

素晴らしく賢い答えですね。彼らはこう言ったのです。燃える炉は怖くありません。我々の神様は我々をその中から簡単に助ける事ができます。しかし、もし助けてくれなかったとしても我々は金の像を拝みません。なぜならば、我々は絶対に最後まで神様に従うと心に決めているからです。

すごいことだと思いませんか?ネブカデネザル王は世界一大きく、強い国の王様でした。そんな王様の命令を拒否したのです。三人は、周りの全ての人が金の像にひれ伏しているのに、自信をもって、真実のために王様に従わなかったのです。日本人は「だめ」とか「できない」とか断るのが苦手な人が多いです。しかし、この話を読んだ後はもう言い訳なんてできませんよね。家族や友達、近所の人がやっているから自分もそれをしている、なんて言い訳にはなりません。たとえ学校が、町が、国全体がしているからといって、もしそれが真実を曲げているのであれば、あなたはそれに従う必要はありません。

では、この三人の立ち上がるための勇気はどこから来たのでしょうか。ダニエル書一章を思い出してください。一章でダニエルと三人は神様の望まれる健康的な食事のために立ち上がり、神様の祝福を経験しました。つまり三人は一章での神様の御業を信じ、三章でも立ち上がる事ができたのです。この三人の他にもユダヤ人はいたはずです。しかし一章でダニエルと三人の友人以外のユダヤ人は、食事という一見些細な事ではありますが、神様のために立ち上がることをしなかったのです。そのような人々が、三章でいきなり命を懸けてまで神様のために立ち上がることができるはずもありません。ですから、私たちも何か大きなことに対して真実を貫きたいのなら、日々、どんなに小さな事に対しても真実を貫き通すべきなのです。将来必ず来る大きな危機、問題、災難を乗り越えるため、今日から、小さかろうが大きかろうが真実のために立ち上がりましょう。

そこでネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴにむかって、顔色を変え、炉を平常よりも七倍熱くせよと命じた。またその軍勢の中の力の強い人々を呼んで、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを縛って、彼らを火の燃える炉の中に投げ込めと命じた。そこでこの人々は、 外套、下着、帽子、その他の衣服のまま縛られて、火の燃える炉の中に投げ込まれた。王の命令はきびしく、かつ炉は、はなはだしく熱していたので、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを引きつれていった人々は、その火炎に焼き殺された。シャデラク、メシャク、アベデネゴの三人は縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。
ダニエル書3章19-23節

あの三人よりも遥かに強いはずの軍人が、あまりの火の熱さに、三人を投げ入れるために炉に近づいただけで焼け死にました。しかし、ここで奇跡が起きたのです。

その時、ネブカデネザル王は驚いて急ぎ立ちあがり、大臣たちに言った、「われわれはあの三人を縛って、火の中に投げ入れたではないか」。彼らは王に答えて言った、「王よ、そのとおりです」。王は答えて言った、「しかし、わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害をも受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ」。
ダニエル書3章24,25節

三人はあの凄まじく燃え盛る炎の中に投げ込まれたにも変わらず、その中を歩き回っていました。それだけでも驚きなのに、四人目の者が火の中にいたのです。四人目の、”神の子”の様な者というのはイエス様のことです。ではなぜネブカデネザル王は、四人目が神の子のようだといったのでしょうか?それはおそらくダニエルと三人の友の日々の生活から、神様の愛と真実があふれ出るのを見ていたからなのでしょう。王様は彼らを通して神の子を目の当たりにされていたのです。同じように、私たちも普段の生活を通して周りの人たちにイエス様の事を伝えることができるのです。

そこでネブカデネザルは、その火の燃える炉の入口に近寄って、「いと高き神のしもべシャデラク、メシャク、アベデネゴよ、出てきなさい」と言ったので、シャデラク、メシャク、アベデネゴはその火の中から出てきた。 総督、長官、知事および王の大臣たちも集まってきて、この人々を見たが、火は彼らの身にはなんの力もなく、その頭の毛は焼けず、その外套はそこなわれず、火のにおいもこれに付かなかった。ネブカデネザルは言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴの神はほむべきかな。神はその使者をつかわして、自分に寄り頼むしもべらを救った。また彼らは自分の神以外の神に仕え、拝むよりも、むしろ王の命令を無視し、自分の身をも捨てようとしたのだ。それでわたしはいま命令を下す。諸民、諸族、諸国語の者のうちだれでも、シャデラク、メシャク、アベデネゴの神をののしる者があるならば、その身は切り裂かれ、その家は滅ぼされなければならない。このように救を施すことのできる神は、ほかにないからだ」。こうして、王はシャデラク、メシャクおよびアベデネゴの位を進めて、バビロン州におらせた。
ダニエル書3章26-30節

そして三人は燃える炉の中から一切の火の形跡やにおいもなく無事に出てきたのです。この三人が命を張って真実のために立ち上がった結果、神様は栄光とお力をお示しになりました。

今日からあなたも日々、どんなに些細なことに対しても真実を曲げず、神様のために立ち上がりましょう。

次回は、ダニエル書4章について書きます。それまで共にお祈りと聖書勉強に励みましょう。

04/06/2012
作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真


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2012年4月5日木曜日

ダニエル書3章-前半-リーダー

今回は3章の前半を勉強したいと思います。1章では、ダニエルたちが王の与えられた食べ物と酒によって自分たちを汚さないと決心し、真実のために立ち上がりました。その結果、ダニエルたちは王の食事を頂いていた若者たちよりも10倍賢くなり、顔色は美しく、健康になりました。2章では、ネブカデネザル王が夢を見ました。王はその夢の内容と意味を解き明かすことのできない賢者たちに対して怒り、バビロンの知者を皆殺しにするよう命令しました。それを知ったダニエルたちはお祈りし、神様の助けによりネブカデネザル王の夢を言い当て、更にその解き明かしをしました。

さて、2章の夢を思い出してみてください。夢の中では頭からつま先まで、金、銀、青銅、鉄、鉄と粘土に分けられた像がありました。金の頭はネブカデネザル王、すなわちバビロン王国を表していました。しかしネブカデネザル王は自分の王国が頭だけであることに納得がいかず、3章で頭からつま先まで、全身が金でできている像を作りました。

“ネブカデネザル王は一つの金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトで、彼はこれをバビロン州のドラの平野に立てた。そしてネブカデネザル王は、総督、長官、知事、参議、庫官、法官、高僧および諸州の官吏たちを召し集め、ネブカデネザル王の立てたこの像の落成式に臨ませようとした。”

ダニエル書3章1,2節


これはただの像ではありません。神様から頂いた夢に対するネブカデネザル王の挑戦だったのです。知恵と権能があり、すべての秘密を知っておられる神様の言葉に納得がいかず、自分の好きなように像を造ったのです。そして、ネブカデネザル王はバビロン国のリーダーたちを呼び集め、金の像を拝ませようとしました。

“時に伝令者は大声に呼ばわって言った、「諸民、諸族、諸国語の者よ、あなたがたにこう命じられる。角 笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞く時は、ひれ伏してネブカデネザル王の立てた金の像を拝まなければならない。だれでもひれ伏して拝まない者は、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる」と。そこで民らはみな、ひれ伏して、ネブカデネザル王の立てた金の像を拝んだ。”
ダニエル書3章4-6節

大勢の人々がその像を拝んでいる中、その像にひれ伏し拝まない3人のユダヤ人がいました。それはダニエルの三人の友達シャデラク、メシャク、アベデネゴでした。彼らは天の神様に忠実に仕えるため、像にはひれ伏さないと立ちあがったのです。では、ダニエルはその時どこに居たのでしょうか?残念ながら、聖書にはダニエルがその時どこで何をしていたのか書いてありません。しかし1章と2章を読んだら、ダニエルが神様に忠実な人であり、また、三人の友達のリーダー的存在だったということが分かります。ですから、ネブカデネザル王はダニエルが像を拝まないと予想し、ダニエルに任務を託して何処か遠い場所に遣わせたのではないかという考えがあります。リーダー的存在であるダニエルを三人から引き離したら、三人は簡単に金の像を拝むだろうと王様は思っていたのかもしれません。しかし、全ての人が金の像にひれ伏し拝んでいる中、この三人は神様の掟に対して忠実でした。この三人はダニエルと言うリーダー的存在の人なしで、金の像を拝めと言う試練を乗り越えたのです。神様がこの三人の本当のリーダーだったから乗り越えられたのです。ここで、一つ重要なポイントがあります。たとえ、どんなに優秀で頼れるリーダーがあなたにいたとしても、リーダーが人間である限り、その人がいつもあなたと一緒に居る事はできません。試練や危険があなたに訪れる時、あなたの信頼するリーダーはあなたのそばに居ないかもしれません。ですから、神様をあなたの一番のリーダーとして下さい。あなたが求める限り、神様はあなたがいつ何処にいようとも、あなたと一緒におられます。

“夕べに、あしたに、真昼にわたしが嘆きうめけば、主はわたしの声を聞かれます。
詩篇55章17節

どんなに優秀で頼りがいのあるリーダーでも、人間のリーダーは私たちと同じで不完全です。完全なるリーダーでおられる神様に全てをゆだねてついていきましょう。

次回は、ダニエル書3章後半、ダニエル書3章13節から3章終わりまでについて書きたいと思います。三人は像を拝まないと決心した結果、一体どうなったのでしょうか。

04/05/2012

作者;福田ダニエル
編集者:品末拓真

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2012年4月3日火曜日

ハナミズキ


「兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、ユダヤ人の王、万歳』と言って、平手で打った。」 
ヨハネによる福音書19:2,3

「イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴだという所へ向かわれた。そこで彼らはイエスを十字架につけた。」
ヨハネによる福音書19:17,18
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
ローマの信徒への手紙4:8

春の季節になると、サザンアドベンチスト大学のキャンパスにたくさんのお花が咲きます。なかでもハナミズキの木がたくさんの白やピンクの花を咲かせます。ハナミズキは4枚の花びらで真ん中に黄色い小さなお花がたくさん集まっています。ひとつひとつの花びらの先端は少し赤茶色に染まっています。そんなハナミズキのお花についてこんなことを聞きました。

ハナミズキの4枚の花びらはイエス様の十字架を表しています。そして花びらの先端の赤茶色の部分はイエス様が十字架で手足をくぎで打たれたあと、血がにじんでいるのを象徴しています。真ん中に集まっている小さなお花たちは、イエス様の冠をあらわしている、というのです。十字架につけられたとき、イエス様は兵士たちに皮肉のように茨の冠をかぶせられました。しかし、本当はイエス様はわたしたちの黄金の冠をかぶった王様に匹敵するべき存在です。その黄金の冠をあらわしたのが真ん中の黄色い小さなお花です。

イエス様は2000年前わたしたち人間すべての罪を許すために十字架刑というその時代一番屈辱的、そして苦しい刑によって死なれました。その十字架で流された血はわたしたちのためでした。そして3日目の朝イエス様は復活されました。イエス様の犠牲はわたしたちの罪を許す力がありました。なぜならイエス様は完全な方であるからです。聖書のローマの信徒への手紙5:18には「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」と書いてあります。イエス様によってわたしたちには永遠の命が約束されています。そしてイエス様を個人的な救い主として受け入れるとき、だれでもその永遠の命の約束を受けることができるのです。

このハナミズキはちょうどイースターというイエス様の復活をお祝いする時期にあわしたように花を咲かせます。自然を通して神様はわたしたちに「イエス様はあなたたちひとりひとりの罪を許すために十字架にかかって死んでくださったのだよ」というメッセージを送っておられるのではないでしょうか?

今度ハナミズキのお花をみたときにはそんなことを考えてみてください。

森春香

2012年4月3日


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