605BC-539BC バビロン -金の頭
539BC-331BC メデアとペルシャ -銀の胸と両腕
331BC-168BC ギリシャ -青銅の腹ともも
168BC-476AD ローマ -鉄のすね
あなたはその足と足の指を見られましたが、その一部は陶器師の粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします。しかしあなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、その国には鉄の強さがあるでしょう。その足の指の一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。あなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、それらは婚姻によって、互に混ざるでしょう。しかし鉄と粘土とは相混じらないように、かれとこれと相合することはありません。
ダニエル書2章41-43節
「一部は鉄」、「一部は陶器師の粘土」とは一体何のことでしょう?「一部は鉄」という事は、四つ目のローマ王国の続きである事を示しています。では粘土とは何を意味するのでしょうか?
されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。
イザヤ書64章8節(新共同訳は7節)
聖書によりますと、神様は陶器師で我々は粘土です。我々というのは神様に従う人たち、すなわち教会の事です。
「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。
エレミヤ18章6節
ここでも粘土という言葉が用いられています。「イスラエルの家」とは、ユダヤ人のことです。要するに神様についていく人たちであり、今でいう教会のことなのです。
しかし、ここで一つ問題があります。聖書はもともとヘブライ語とギリシャ語、アラム語で書かれました。ダニエル書2章はアラム語で書かれました。そして、元の言語であるアラム語でダニエル書2章41-43節を読んでみると、ただ「粘土」とは書かれていません。実は「泥っぽい粘土」と書かれているのです。なぜか日本語に翻訳された時、「泥っぽい」という表現が消えてしまっていますが、もとの言語では「泥っぽい粘土」とはっきり書かれているのです。そして「粘土」が教会であるということは、「泥っぽい粘土」は汚れた教会を指しているのです。神様の掟と真実に反する教会の事です。その教会は神様の御言葉をねじ曲げて、それでも神様の教会だと言い張るのです。
鉄と粘土(泥っぽい粘土)はローマ国と教会の合体を意味していたのです。つまり、法王権のことです。
悲しいことに、多くの人々は「泥っぽい粘土」、つまり汚れた教会だとは知らずに法王権に従っています。彼らの多くは真面目で、優しくて、愛にあふれているのです。しかし、泥の中に居たままでは、彼らはいつか溺れて沈んでいってしまいます。ですから、我々教会はイエスキリストの使いとして、聖書の真実とキリストの愛を伝えるべきなのです。今日から、神様と聖霊の力によって真実と愛を宣べ伝えて行きましょう。
主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。
詩篇40章2節(新共同訳は3節)
主イエスキリストこそが我々の岩です。泥っぽい粘土ではなく、岩、すなわちイエスキリストを土台とした教会の一部となりましょう。日々お祈りをして、聖書をしっかり勉強していれば、必ずその教会を見出す事ができます。法王権についてはもっと詳しくダニエル書7章の時に説明します。
04/08/2012
作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真
にほんブログ村に参加しました。
アイコンの応援クリックをお願いします!
0 件のコメント:
コメントを投稿