2012年4月20日金曜日

ダニエル書5章-前半


 ダニエル書5章の前半について解説します。1-4章の記事を読んでいない方は、そちらを先に読むことをお勧めします。

  ベルシャザル王は、その大臣一千人のために、盛んな酒宴を設け、その一千人の前で酒を飲んでいた。酒が進んだとき、ベルシャザルは、その父ネブカデネザルがエルサレムの神殿から取ってきた金銀の器を持ってこいと命じた。王とその大臣たち、および王の妻とそばめらが、これをもって酒を飲むためであった。そこで人々はそのエルサレムの神の宮すなわち神殿から取ってきた金銀の器を持ってきたので、王とその大臣たち、および王の妻とそばめらは、これをもって飲んだ。すなわち彼らは酒を飲んで、金、銀、青銅、鉄、木、石などの神々をほめたたえた。
ダニエル書5章1-4節

 この時代のバビロンの常識として、どんな理由があろうと、神殿の物や聖なる物で遊んではいけませんでした。聖なる物に手を出すべきではないと知っていながらも、ベルシャザル王がそれに手を出してしまったのは、おそらく、酒を飲んで酔っ払っていたからでしょう。酒を飲み酔うと、この王のように取り返しのつかない愚かな事をしてしまいます。あなたは酒を前にしたとき、どうしていますか?今度、酒があなたの前に出てきたら、神様との関係を汚してまでそれを飲む価値があるのかどうか、よく考えてみてください。王は酒に酔い、悪いと知りながらもどうしようもない過ちを犯してしまいました。聖なる物を粗末に扱い、ただの物を神としてあがめた王は、神様の怒りを招くことになったのです。

 すると突然人の手の指があらわれて、燭台と相対する王の宮殿の塗り壁に物を書いた。王はその物を書いた手の先を見た。そのために王の顔色は変り、その心は思い悩んで乱れ、その腰のつがいはゆるみ、ひざは震えて互に打ちあった。
ダニエル書5章5-6節

 この「手の指」は、もとの言語によれば「手首から下」と言う解釈もできます。つまり、突然手だけが現れて、壁に文字を書き始めたのです。そんなのを見たら誰だってびっくりします。 

 ベルシャザル王は、王として全く駄目な人間でした。政治も戦争も、残念な間違いと敗北ばかりでした。そして、王は宴会と酒と女でへらへらしながら、国の深刻な現実から逃げていたのです。その時、この「手」は出てきたのです。王はその「手」と、意味不明な文字に恐怖に陥りました。王はバビロンの頭のいい人たちを集めて、壁に書かれた文字を読ませようとしましたが、彼らがそれを解き明かす事はできませんでした。

 「わたしは、知者、法術士らを、わが前に召しよせて、この文字を読ませ、その解き明かしを示させようとしたが、彼らは、この事の解き明かしを示すことができなかった。しかしまた聞くところによると、あなたは解き明かしをなし、かつ難問を解くことができるそうだ。それで、あなたがもし、この文字を読み、その解き明かしをわたしに示すことができたなら、あなたに紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけさせて、この国の第三のつかさとしよう」。
ダニエル書5章15-16節
 
 文字を読んで解き明かせる者にはバビロン王国で三番目の地位を与える、と王は約束しました。ところで、なぜ三番目なのでしょうか?それはこの時、バビロンがベルシャザルと、彼の父のナボナデウスによって治められていたからです。実はベルシャザルはネブカデネザル王の孫です。ダニエル書5章2節に「…ベルシャザルは、その父ネブカデネザルが…」とありますが、それはネブカデネザルがベルシャザルの父であったという意味ではありません。ここで使われているへブル語の「父」は「先祖」という意味も持っています。すなわち、ネブカデネザルはベルシャザルの先祖であった、ということを言っているのです。ベルシャザルの父、つまりネブカデネザルの息子がナボナデウスです。よって「第三のつかさ」とはナボナデウスとベルシャザルのすぐ次の位を意味していたのです。

  
 5章は1章から約50年経っています。50年間もバビロンにいながら、食事や他の誘惑にも負けず、ダニエルは神様に忠実に従い生きてきました。そして、ネブカデネザルの夢の解き明かしをしたダニエルは、今、ベルシャザルの前に連れてこられたのです。ダニエルは飾り物や権力などの報酬を断り、謎を解き明かすと言いました。

 ダニエルは王の前に答えて言った、「あなたの賜物は、あなたご自身にとっておき、あなたの贈り物は、他人にお与えください。それでも、わたしは王のためにその文字を読み、その解き明かしをお知らせいたしましょう。王よ、いと高き神はあなたの父ネブカデネザルに国と権勢と、光栄と尊厳とを賜いました。彼に権勢を賜わったことによって、諸民、諸族、諸国語の者はみな、彼の前におののき恐れました。彼は自分の欲する者を殺し、自分の欲する者を生かし、自分の欲する者を上げ、自分の欲する者を下しました。しかし彼は心に高ぶり、かたくなになり、ごうまんにふるまったので、王位からしりぞけられ、その光栄を奪われ、追われて世の人と離れ、その思いは獣のようになり、そのすまいは野ろばと共にあり、牛のように草を食い、その身は天からくだる露にぬれ、こうしてついに彼は、いと高き神が人間の国を治めて、自分の意のままに人を立てられるということを、知るようになりました。ベルシャザルよ、あなたは彼の子であって、この事をことごとく知っていながら、なお心を低くせず、 かえって天の主にむかって、みずから高ぶり、その宮の器物をあなたの前に持ってこさせ、あなたとあなたの大臣たちと、あなたの妻とそばめたちは、それをもって酒を飲み、そしてあなたは見ることも、聞くことも、物を知ることもできない金、銀、青銅、鉄、木、石の神々をほめたたえたが、あなたの命をその手ににぎり、あなたのすべての道をつかさどられる神をあがめようとはしなかった」。
ダニエル書5章17-23節

 ベルシャザルは神様のこと知っていたはずです。ネブカデネザル王の孫として、1章、2章、3章、4章に書かれている神様の奇跡や行いを知っていたはずなのです。4章で、ネブカデネザル王が神様の忠告を無視して高ぶったせいで、頭が狂った獣のように7年間暮らしていたこと、そして7年の終わりに、ネブカデネザルが神様を唯一の神であると認め、正気に戻り、神様の栄光のために生きると決心した事も知っていたはずなのです。それにも関わらず、ベルシャザルは飲みたい放題、やりたい放題、神様の忠告を無視して、真実に逆らっていたのです。

 ベルシャザルの人生から学ぶべき事が二つあります。一つは、我々の親、祖父母や人生の先輩の話を素直に聞き、同じ間違いを繰り返さないように正しく生きることです。もしベルシャザルがネブカデネザルの経験を真面目に学んでいたなら、こんな愚かなことはしなかったはずです。二つ目は、今の自分のことだけを考えるのではなく、永遠の天国という現実を常に考えて生きるべきということです。今の時代、この世界には誘惑が溢れています。ベルシャザルのようにこの世界の物に囚われ、神様を無視してはいけません。飲み会、合コン、デート、映画、ドラマ、テレビ、インターネット等のこの世のものから少し離れてみて、神様と天国という現実についてもっと考えてみてください。神様はあなたの事を死ぬほど愛しています。現に、神様はあなたのために十字架にかかって死なれ、そしてよみがえられました。あなたを愛している神様は、天国であなたと一緒に永遠に暮らしたいのです。天国とこの地上の人生を比べたら、今の人生は非常に短く、小さく、そして不安定です。ですから、そんなものとは比べ物にならない程大きな神様と天国のことをもっと学び、それを周りの人に分かち合っていきましょう。

次回は5章後半、壁に書かれた文字の解釈について詳しく書きます。

イエスキリストに全てを委ね、彼と共に生きましょう。

04/20/2012
作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真

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