2012年4月20日金曜日

ダニエル書4章

 今回は、4章から2つの興味深いポイントを紹介して、簡単に説明してみたいと思います。ですから、4章は後で自分でゆっくり勉強してみてください。
 
ポイント1
 実は、4章はネブカデネザル王が書いたもので、王の人生のクライマックスが描かれています。4章の終わりには、王が完全に神様を認め、そして受け入れます。おそらく、王はダニエルたちの日々の行いに興味を持ち、彼らの神様への忠誠に尊敬を抱いていった結果、神様を自分の神様として受け入れたのでしょう。神様がダニエルたちを通して、偉大なるバビロンの王を真実へと導く事ができたのですから、もちろん、神様が私たちをそのように用いることもできるはずです。今日も、神様は私たちを通してこの世界の人々を真実へと導かれようとしています。今、私たちがするべき事は目の前にあることに真剣に取り組むことです。それがどんなに小さなものでも、神様の御心のままに行う必要があります。小さな責任を果たすことにより、いつか大きな責任を任された時に、それを果たす力が与えられるのです。


ポイント2
ダニエル書4章35節(新共同訳では4章32節)とイザヤ書40章17節、イザヤ書43章13節を読み比べてみてください。

地に住む民はすべて無き者のように思われ、天の衆群にも、地に住む民にも、彼はその意のままに事を行われる。だれも彼の手をおさえて「あなたは何をするのか」と言いうる者はない。
ダニエル書4章35節 (新共同訳 4:32)

主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる。
イザヤ書40章17節

わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。
イザヤ書43章13節

 イザヤ書40章17節はダニエル書4章35節(新共同訳 4:32)の前半と、イザヤ書43章13節はダニエル書4章35節(新共同訳 4:32)の後半と似ていると思いませんか。元の言語で見比べてみると、もっとそっくりです。ある学者たちは、ネブカデネザル王はダニエルから聖書の事を少し学んでおり、ダニエルと一緒に勉強したイザヤ書の事を思い出して、この言葉を書いたのだと言います。もしそうだとしたらすごいとは思いませんか。私たちが誰かと聖書研究をすることで、神様はその誰かの心に真実の御言葉を植え付けられるのです。私たちもダニエルのように聖書を勉強して、自信を持って他の人に聖書を伝えることができるように神様に祈り求めましょう。


 次回は、ダニエル書5章について説明します。それまで、日々お祈りと聖書勉強をがんばっていきましょう。

04-20-2012
作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真

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