三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることをあなたはよく知っておられます。」
ヨハネによる福音書21:17
イエス様が十字架にかかって死なれたあと、三日後に復活されます。そして弟子たちの前に現れます。イエス様のことを三度も知らないと言って裏切ってしまったペトロにもイエス様は復活したあとに会われました。ヨハネの福音書21章にその光景が描かれています。ペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち、そのほか2人の弟子たちがティベリアス湖に夜中魚をとりにいきます。ところがその晩は魚を1匹もつかまえられませんでした。夜明けのころに岸に復活されたイエス様がたっておられ、網をいままでおろしていた反対側、右側に打ってみなさいと言われました。そのとき弟子たちはイエス様だとは分かりませんでしたが、とりあえず右側に網を打ちました。すると網を引き揚げることができないほどの魚がとれました。そこで彼らは「イエス様だ!」とわかりました。
このあと岸辺に上がり、炭火を囲んでイエス様と弟子たちは朝ごはんを食べます。死んでしまったと思っていたイエス様がこうして目の前に現れて一緒に朝ごはんを食べられて弟子たちはどんな気持ちだったでしょう? 朝ごはんが終わるとイエス様はこんな質問をペトロにします。「ヨハネの子シモン、[ペトロ]、この人たち以上にわたしを愛しているか。」 そしてペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と言います。イエス様はヨハネの福音書2:25に「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」とあるように人の心を知っておられます。それならなぜこんな質問をしたのでしょう? そして1度だけではなく、また「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と言われ、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えます。そしてさらにイエスは三度目に「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と言われます。ペトロは三度もイエス様が自分の心をわかっておられるはずなのに愛しているかなどと聞かれて悲しくなります。 なぜイエス様は三度もペトロに「わたしを愛しているか。」と質問したのでしょうか?
この三度の「わたしを愛しているか」というイエス様の質問はペトロの三度もイエス様のことを「知らない」と裏切ってしまったことに関係があると思います。「愛」の反対は「憎しみ」ではなく、「無関心」だということを聞いたことがあります。その人との関係すら否定するような無関心「知らない」と言うことは愛というものとかけ離れています。 ペトロが三度もイエス様を知らないと言ってしまったことを、イエス様は「わたしを愛しているか。」と三度ペトロに聞くことでペトロを責め立てることもなく、ただ取り消そうとしておられるのではないでしょうか。
この話を聞くとき、わたしは、イエス様は神様だけれども、人との関係を大切に思っていて、人間の失敗を一緒に解決したい、助けたいと思っておられるのではと思います。そして、イエス様を愛してほしいと強く願っているのと同時に、それを強制されることなくわたしたちがイエス様を愛することを自主的に選んでほしいという思いが伝わってきます。
みなさんはこのイエス様の愛にどうこたえますか?
森春香
2012年4月11日
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