2012年4月13日金曜日

磁石の神様と私

“次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。”
ローマ3章10,23-24節

磁石にはPositive (+)とNegative(-)が在ります。(+)と(-)がくっ付きます。しかし、(+)と(+)を無理やり押したら一緒になりますが、いずれ反射して離れてしまいます。同じように、神様が(+)だとします。そして、私が(-)だと認めない限り、神様とくっ付きません。私の自分の罪を認め、自分の弱さ、間違い、不完全さを認めて、初めて神様とくっ付く事ができるのです。逆に自分は(+)と言い張っていると神様とはくっ付きません。自分は正しい、大してひどい罪もしてないし、ひかくてきに強いし、神様の助けなしで義人になれると言ってたら、神様とくっ付きません。この磁石の世界も永遠には続きません。いずれは、裁判が起きます。(-)と認める人たちは、神様に完全にくっ付き、支えられ、永遠の命をもらいます。そして、(-)と認めないで、自分は(+)だと言い張って、神様に反射して、抵抗ばっかりするものも居ます。いずれは、この抵抗にも終わりが来ます。抵抗ばっかりして、神様にくっ付かない者は、永久にくっ付かないようになってしまいます。反射してばっかりいると本当に、命の手綱である神様から永久に引き離されて、永久にくっ付くチャンスを失ってしまいます。ですから、今、まだ時間あるときに自分は(-)だと認めて神様にくっ付きましょう。素直に、神様なしでは、幸せに生きていけないと認めましょう。
                キリストが今度地球に帰って来られる時に、最後の裁判が起きます。神様とくっ付くと決めたものは、永遠にくっ付き二度と神様から離される事はありません。喜び、愛、真実、希望、平安、楽しさ、と笑いで満ちあふれた天国での永遠の命です。一人でも多く、神様とくっ付くと決意する人が増えるようにと日々祈っています。共にがんばりましょう。

04-08-2012
作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真

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2012年4月11日水曜日

三度の裏切り、三度の質問



三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることをあなたはよく知っておられます。」
ヨハネによる福音書21:17

            イエス様が十字架にかかって死なれたあと、三日後に復活されます。そして弟子たちの前に現れます。イエス様のことを三度も知らないと言って裏切ってしまったペトロにもイエス様は復活したあとに会われました。ヨハネの福音書21章にその光景が描かれています。ペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち、そのほか2人の弟子たちがティベリアス湖に夜中魚をとりにいきます。ところがその晩は魚を1匹もつかまえられませんでした。夜明けのころに岸に復活されたイエス様がたっておられ、網をいままでおろしていた反対側、右側に打ってみなさいと言われました。そのとき弟子たちはイエス様だとは分かりませんでしたが、とりあえず右側に網を打ちました。すると網を引き揚げることができないほどの魚がとれました。そこで彼らは「イエス様だ!」とわかりました。 
            このあと岸辺に上がり、炭火を囲んでイエス様と弟子たちは朝ごはんを食べます。死んでしまったと思っていたイエス様がこうして目の前に現れて一緒に朝ごはんを食べられて弟子たちはどんな気持ちだったでしょう? 朝ごはんが終わるとイエス様はこんな質問をペトロにします。「ヨハネの子シモン、[ペトロ]、この人たち以上にわたしを愛しているか。」 そしてペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と言います。イエス様はヨハネの福音書2:25に「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」とあるように人の心を知っておられます。それならなぜこんな質問をしたのでしょう? そして1度だけではなく、また「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と言われ、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えます。そしてさらにイエスは三度目に「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と言われます。ペトロは三度もイエス様が自分の心をわかっておられるはずなのに愛しているかなどと聞かれて悲しくなります。 なぜイエス様は三度もペトロに「わたしを愛しているか。」と質問したのでしょうか?
            この三度の「わたしを愛しているか」というイエス様の質問はペトロの三度もイエス様のことを「知らない」と裏切ってしまったことに関係があると思います。「愛」の反対は「憎しみ」ではなく、「無関心」だということを聞いたことがあります。その人との関係すら否定するような無関心「知らない」と言うことは愛というものとかけ離れています。 ペトロが三度もイエス様を知らないと言ってしまったことを、イエス様は「わたしを愛しているか。」と三度ペトロに聞くことでペトロを責め立てることもなく、ただ取り消そうとしておられるのではないでしょうか。
            この話を聞くとき、わたしは、イエス様は神様だけれども、人との関係を大切に思っていて、人間の失敗を一緒に解決したい、助けたいと思っておられるのではと思います。そして、イエス様を愛してほしいと強く願っているのと同時に、それを強制されることなくわたしたちがイエス様を愛することを自主的に選んでほしいという思いが伝わってきます。
            みなさんはこのイエス様の愛にどうこたえますか? 

森春香
2012年4月11日


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2012年4月8日日曜日

ダニエル書2章-鉄と粘土

ネブカデネザル王が夢の中で見た像の説明は、「ダニエル書2章―後半」の記事をお読みください。この記事では「鉄」の次に来る「鉄と粘土」について詳しく解説します。

605BC-539BC バビロン -金の頭
539BC-331BC メデアとペルシャ -銀の胸と両腕
331BC-168BC ギリシャ -青銅の腹ともも
168BC-476AD ローマ -鉄のすね


あなたはその足と足の指を見られましたが、その一部は陶器師の粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします。しかしあなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、その国には鉄の強さがあるでしょう。その足の指の一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。あなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、それらは婚姻によって、互に混ざるでしょう。しかし鉄と粘土とは相混じらないように、かれとこれと相合することはありません。

ダニエル書2章41-43節

「一部は鉄」、「一部は陶器師の粘土」とは一体何のことでしょう?「一部は鉄」という事は、四つ目のローマ王国の続きである事を示しています。では粘土とは何を意味するのでしょうか?

されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。

イザヤ書64章8節(新共同訳は7節)


聖書によりますと、神様は陶器師で我々は粘土です。我々というのは神様に従う人たち、すなわち教会の事です。


「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。

エレミヤ18章6節


ここでも粘土という言葉が用いられています。「イスラエルの家」とは、ユダヤ人のことです。要するに神様についていく人たちであり、今でいう教会のことなのです。


しかし、ここで一つ問題があります。聖書はもともとヘブライ語とギリシャ語、アラム語で書かれました。ダニエル書2章はアラム語で書かれました。そして、元の言語であるアラム語でダニエル書2章41-43節を読んでみると、ただ「粘土」とは書かれていません。実は「泥っぽい粘土」と書かれているのです。なぜか日本語に翻訳された時、「泥っぽい」という表現が消えてしまっていますが、もとの言語では「泥っぽい粘土」とはっきり書かれているのです。そして「粘土」が教会であるということは、「泥っぽい粘土」は汚れた教会を指しているのです。神様の掟と真実に反する教会の事です。その教会は神様の御言葉をねじ曲げて、それでも神様の教会だと言い張るのです。


鉄と粘土(泥っぽい粘土)はローマ国と教会の合体を意味していたのです。つまり、法王権のことです。

悲しいことに、多くの人々は「泥っぽい粘土」、つまり汚れた教会だとは知らずに法王権に従っています。彼らの多くは真面目で、優しくて、愛にあふれているのです。しかし、泥の中に居たままでは、彼らはいつか溺れて沈んでいってしまいます。ですから、我々教会はイエスキリストの使いとして、聖書の真実とキリストの愛を伝えるべきなのです。今日から、神様と聖霊の力によって真実と愛を宣べ伝えて行きましょう。


主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。

詩篇40章2節(新共同訳は3節)


主イエスキリストこそが我々の岩です。泥っぽい粘土ではなく、岩、すなわちイエスキリストを土台とした教会の一部となりましょう。日々お祈りをして、聖書をしっかり勉強していれば、必ずその教会を見出す事ができます。法王権についてはもっと詳しくダニエル書7章の時に説明します。

04/08/2012
作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真


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私たちのヒーロー


神様と私達の関係を表した感動的な動画があり、皆さんにも見てもらいたいと思ったので、翻訳しました。



1992年、
夏のバルセロナオリンピックでデレク・レドモンドという若い男が
400m走の準決勝で勝つと期待されていた。
*
ところが、競技の最中、ゴールラインの250m前で悲劇が訪れます。
レドモンドのハムストリングは裂け、肉離れを起こしたので、
彼は足を引きずりながら止まり、そして地面に倒れてしまったのです。
*
しばらくして、救急隊員が彼に近づき、安全な場所へ運ぼうとしました。
*
しかし、レドモンドは激痛の中、隊員の反対を押し切り、
足を引きずりながらも、またトラックに沿って走り始めました。
*
そんな中突然、観客の中にいた大きな男がトラック上に飛び出てきました。
レドモンドの父親でした。
*
「息子よ、お前はもう走らなくていいのだよ。」
父親は泣いている息子に駆け寄って伝えました。
しかし、息子は「いや、俺は走る。」と言ったのです。
そして父親はこう返したのです。
「よし。それなら二人で一緒にこのレース終わらせるぞ。」
父親は息子の肩を腕で優しく囲んで、歩くのを助けてあげた。
*
ゴールラインの少し前で父親は息子を一人で歩かせました。
そして観衆6万5千人のスタンドオベーションと共に
デレク・レドモンドは長い400m走のゴールを切ったのである。
*
レドモンドは一位をとることは出来ませんでした。
しかし、彼は自分に与えられたレースを走りきったのです。
痛み、涙をこらえながら、彼はすべてを尽くしました。
自分の息子が倒れた時に、駆け寄って助けた父親の愛はとても強いものでした。
何が父親に観客席からを立って、
トラック上にいる息子を助けさせたのでしょう?
*
それは父親の子供の苦しんでいる顔でした。
息子は痛みで苦しんでいた。だけどゴールを切りたかった。
それだから父親は息子に駆け寄って
与えられたレースを走りきるために助けてあげたのです。
*
私たちクリスチャンが考える神様はこの父親のようだと言えます。
私たちが痛みに苦しみながらも人生を歩む時、
神様は私達を取り囲み助けてくれるのです。
*
あなたはどうですか?
あなたのレース(人生)はどうですか?
痛みの中にいますか?
あなたは何かをあきらめそうな状態ですか?
神様はあなたにいい人生を送っていいゴールを切ってほしいと願っています。
彼はあなたを愛しているからです。
あなたも神様に心を開いてみませんか?

西野貴其
2012年4月8日




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ダニエル書3章後半

是非ダニエル書三章前半の記事をお読みになってからこの記事をお読みください。
さて、ネブカデネザル王は三人のユダヤ人が像に拝まないと聞いて怒りました。

“そこでネブカデネザルは怒りかつ憤って、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを連れてこいと命じたので、この人々を王の前に連れてきた。ネブカデネザルは彼らに言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴよ、あなたがたがわが神々に仕えず、またわたしの立てた金の像を拝まないとは、ほんとうなのか。あなたがたがもし、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くときにひれ伏して、わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」。”
ダニエル書3章13-15節

ネブカデネザル王は、この三人にもう一度チャンスを与えました。本来ならばすぐに火の燃える炉に投げ込まれてもおかしくないのですが、王はチャンスを与えたのです。しかし、それでも三人は心を変えずに神様のために立ち続けました。

“シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。”
ダニエル書3章16-18節

素晴らしく賢い答えですね。彼らはこう言ったのです。燃える炉は怖くありません。我々の神様は我々をその中から簡単に助ける事ができます。しかし、もし助けてくれなかったとしても我々は金の像を拝みません。なぜならば、我々は絶対に最後まで神様に従うと心に決めているからです。

すごいことだと思いませんか?ネブカデネザル王は世界一大きく、強い国の王様でした。そんな王様の命令を拒否したのです。三人は、周りの全ての人が金の像にひれ伏しているのに、自信をもって、真実のために王様に従わなかったのです。日本人は「だめ」とか「できない」とか断るのが苦手な人が多いです。しかし、この話を読んだ後はもう言い訳なんてできませんよね。家族や友達、近所の人がやっているから自分もそれをしている、なんて言い訳にはなりません。たとえ学校が、町が、国全体がしているからといって、もしそれが真実を曲げているのであれば、あなたはそれに従う必要はありません。

では、この三人の立ち上がるための勇気はどこから来たのでしょうか。ダニエル書一章を思い出してください。一章でダニエルと三人は神様の望まれる健康的な食事のために立ち上がり、神様の祝福を経験しました。つまり三人は一章での神様の御業を信じ、三章でも立ち上がる事ができたのです。この三人の他にもユダヤ人はいたはずです。しかし一章でダニエルと三人の友人以外のユダヤ人は、食事という一見些細な事ではありますが、神様のために立ち上がることをしなかったのです。そのような人々が、三章でいきなり命を懸けてまで神様のために立ち上がることができるはずもありません。ですから、私たちも何か大きなことに対して真実を貫きたいのなら、日々、どんなに小さな事に対しても真実を貫き通すべきなのです。将来必ず来る大きな危機、問題、災難を乗り越えるため、今日から、小さかろうが大きかろうが真実のために立ち上がりましょう。

そこでネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴにむかって、顔色を変え、炉を平常よりも七倍熱くせよと命じた。またその軍勢の中の力の強い人々を呼んで、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを縛って、彼らを火の燃える炉の中に投げ込めと命じた。そこでこの人々は、 外套、下着、帽子、その他の衣服のまま縛られて、火の燃える炉の中に投げ込まれた。王の命令はきびしく、かつ炉は、はなはだしく熱していたので、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを引きつれていった人々は、その火炎に焼き殺された。シャデラク、メシャク、アベデネゴの三人は縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。
ダニエル書3章19-23節

あの三人よりも遥かに強いはずの軍人が、あまりの火の熱さに、三人を投げ入れるために炉に近づいただけで焼け死にました。しかし、ここで奇跡が起きたのです。

その時、ネブカデネザル王は驚いて急ぎ立ちあがり、大臣たちに言った、「われわれはあの三人を縛って、火の中に投げ入れたではないか」。彼らは王に答えて言った、「王よ、そのとおりです」。王は答えて言った、「しかし、わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害をも受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ」。
ダニエル書3章24,25節

三人はあの凄まじく燃え盛る炎の中に投げ込まれたにも変わらず、その中を歩き回っていました。それだけでも驚きなのに、四人目の者が火の中にいたのです。四人目の、”神の子”の様な者というのはイエス様のことです。ではなぜネブカデネザル王は、四人目が神の子のようだといったのでしょうか?それはおそらくダニエルと三人の友の日々の生活から、神様の愛と真実があふれ出るのを見ていたからなのでしょう。王様は彼らを通して神の子を目の当たりにされていたのです。同じように、私たちも普段の生活を通して周りの人たちにイエス様の事を伝えることができるのです。

そこでネブカデネザルは、その火の燃える炉の入口に近寄って、「いと高き神のしもべシャデラク、メシャク、アベデネゴよ、出てきなさい」と言ったので、シャデラク、メシャク、アベデネゴはその火の中から出てきた。 総督、長官、知事および王の大臣たちも集まってきて、この人々を見たが、火は彼らの身にはなんの力もなく、その頭の毛は焼けず、その外套はそこなわれず、火のにおいもこれに付かなかった。ネブカデネザルは言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴの神はほむべきかな。神はその使者をつかわして、自分に寄り頼むしもべらを救った。また彼らは自分の神以外の神に仕え、拝むよりも、むしろ王の命令を無視し、自分の身をも捨てようとしたのだ。それでわたしはいま命令を下す。諸民、諸族、諸国語の者のうちだれでも、シャデラク、メシャク、アベデネゴの神をののしる者があるならば、その身は切り裂かれ、その家は滅ぼされなければならない。このように救を施すことのできる神は、ほかにないからだ」。こうして、王はシャデラク、メシャクおよびアベデネゴの位を進めて、バビロン州におらせた。
ダニエル書3章26-30節

そして三人は燃える炉の中から一切の火の形跡やにおいもなく無事に出てきたのです。この三人が命を張って真実のために立ち上がった結果、神様は栄光とお力をお示しになりました。

今日からあなたも日々、どんなに些細なことに対しても真実を曲げず、神様のために立ち上がりましょう。

次回は、ダニエル書4章について書きます。それまで共にお祈りと聖書勉強に励みましょう。

04/06/2012
作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真


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2012年4月5日木曜日

ダニエル書3章-前半-リーダー

今回は3章の前半を勉強したいと思います。1章では、ダニエルたちが王の与えられた食べ物と酒によって自分たちを汚さないと決心し、真実のために立ち上がりました。その結果、ダニエルたちは王の食事を頂いていた若者たちよりも10倍賢くなり、顔色は美しく、健康になりました。2章では、ネブカデネザル王が夢を見ました。王はその夢の内容と意味を解き明かすことのできない賢者たちに対して怒り、バビロンの知者を皆殺しにするよう命令しました。それを知ったダニエルたちはお祈りし、神様の助けによりネブカデネザル王の夢を言い当て、更にその解き明かしをしました。

さて、2章の夢を思い出してみてください。夢の中では頭からつま先まで、金、銀、青銅、鉄、鉄と粘土に分けられた像がありました。金の頭はネブカデネザル王、すなわちバビロン王国を表していました。しかしネブカデネザル王は自分の王国が頭だけであることに納得がいかず、3章で頭からつま先まで、全身が金でできている像を作りました。

“ネブカデネザル王は一つの金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトで、彼はこれをバビロン州のドラの平野に立てた。そしてネブカデネザル王は、総督、長官、知事、参議、庫官、法官、高僧および諸州の官吏たちを召し集め、ネブカデネザル王の立てたこの像の落成式に臨ませようとした。”

ダニエル書3章1,2節


これはただの像ではありません。神様から頂いた夢に対するネブカデネザル王の挑戦だったのです。知恵と権能があり、すべての秘密を知っておられる神様の言葉に納得がいかず、自分の好きなように像を造ったのです。そして、ネブカデネザル王はバビロン国のリーダーたちを呼び集め、金の像を拝ませようとしました。

“時に伝令者は大声に呼ばわって言った、「諸民、諸族、諸国語の者よ、あなたがたにこう命じられる。角 笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞く時は、ひれ伏してネブカデネザル王の立てた金の像を拝まなければならない。だれでもひれ伏して拝まない者は、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる」と。そこで民らはみな、ひれ伏して、ネブカデネザル王の立てた金の像を拝んだ。”
ダニエル書3章4-6節

大勢の人々がその像を拝んでいる中、その像にひれ伏し拝まない3人のユダヤ人がいました。それはダニエルの三人の友達シャデラク、メシャク、アベデネゴでした。彼らは天の神様に忠実に仕えるため、像にはひれ伏さないと立ちあがったのです。では、ダニエルはその時どこに居たのでしょうか?残念ながら、聖書にはダニエルがその時どこで何をしていたのか書いてありません。しかし1章と2章を読んだら、ダニエルが神様に忠実な人であり、また、三人の友達のリーダー的存在だったということが分かります。ですから、ネブカデネザル王はダニエルが像を拝まないと予想し、ダニエルに任務を託して何処か遠い場所に遣わせたのではないかという考えがあります。リーダー的存在であるダニエルを三人から引き離したら、三人は簡単に金の像を拝むだろうと王様は思っていたのかもしれません。しかし、全ての人が金の像にひれ伏し拝んでいる中、この三人は神様の掟に対して忠実でした。この三人はダニエルと言うリーダー的存在の人なしで、金の像を拝めと言う試練を乗り越えたのです。神様がこの三人の本当のリーダーだったから乗り越えられたのです。ここで、一つ重要なポイントがあります。たとえ、どんなに優秀で頼れるリーダーがあなたにいたとしても、リーダーが人間である限り、その人がいつもあなたと一緒に居る事はできません。試練や危険があなたに訪れる時、あなたの信頼するリーダーはあなたのそばに居ないかもしれません。ですから、神様をあなたの一番のリーダーとして下さい。あなたが求める限り、神様はあなたがいつ何処にいようとも、あなたと一緒におられます。

“夕べに、あしたに、真昼にわたしが嘆きうめけば、主はわたしの声を聞かれます。
詩篇55章17節

どんなに優秀で頼りがいのあるリーダーでも、人間のリーダーは私たちと同じで不完全です。完全なるリーダーでおられる神様に全てをゆだねてついていきましょう。

次回は、ダニエル書3章後半、ダニエル書3章13節から3章終わりまでについて書きたいと思います。三人は像を拝まないと決心した結果、一体どうなったのでしょうか。

04/05/2012

作者;福田ダニエル
編集者:品末拓真

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2012年4月3日火曜日

ハナミズキ


「兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、ユダヤ人の王、万歳』と言って、平手で打った。」 
ヨハネによる福音書19:2,3

「イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴだという所へ向かわれた。そこで彼らはイエスを十字架につけた。」
ヨハネによる福音書19:17,18
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
ローマの信徒への手紙4:8

春の季節になると、サザンアドベンチスト大学のキャンパスにたくさんのお花が咲きます。なかでもハナミズキの木がたくさんの白やピンクの花を咲かせます。ハナミズキは4枚の花びらで真ん中に黄色い小さなお花がたくさん集まっています。ひとつひとつの花びらの先端は少し赤茶色に染まっています。そんなハナミズキのお花についてこんなことを聞きました。

ハナミズキの4枚の花びらはイエス様の十字架を表しています。そして花びらの先端の赤茶色の部分はイエス様が十字架で手足をくぎで打たれたあと、血がにじんでいるのを象徴しています。真ん中に集まっている小さなお花たちは、イエス様の冠をあらわしている、というのです。十字架につけられたとき、イエス様は兵士たちに皮肉のように茨の冠をかぶせられました。しかし、本当はイエス様はわたしたちの黄金の冠をかぶった王様に匹敵するべき存在です。その黄金の冠をあらわしたのが真ん中の黄色い小さなお花です。

イエス様は2000年前わたしたち人間すべての罪を許すために十字架刑というその時代一番屈辱的、そして苦しい刑によって死なれました。その十字架で流された血はわたしたちのためでした。そして3日目の朝イエス様は復活されました。イエス様の犠牲はわたしたちの罪を許す力がありました。なぜならイエス様は完全な方であるからです。聖書のローマの信徒への手紙5:18には「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」と書いてあります。イエス様によってわたしたちには永遠の命が約束されています。そしてイエス様を個人的な救い主として受け入れるとき、だれでもその永遠の命の約束を受けることができるのです。

このハナミズキはちょうどイースターというイエス様の復活をお祝いする時期にあわしたように花を咲かせます。自然を通して神様はわたしたちに「イエス様はあなたたちひとりひとりの罪を許すために十字架にかかって死んでくださったのだよ」というメッセージを送っておられるのではないでしょうか?

今度ハナミズキのお花をみたときにはそんなことを考えてみてください。

森春香

2012年4月3日


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