2012年7月15日日曜日

救いとは


前回は罪の起源について書きました。今回はその「罪」という問題の解決策についてお話します。
私たちはアダムとエバが罪を犯したゆえに朽ちて死ぬ体となってしまい、そして、永遠に生きられるはずが罪の結果、何千年もの歴史を通し、今では人生80年ほどになってしまいました。
でも神様は人間を見捨てませんでした。ある解決策をもっていたのです。私たち人間は皆、罪を犯すものです。では罪とは何でしょうか?
「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である」
ヨハネ第一の手紙3:4

という事は、
神様の律法を犯すこと = 罪

そして、
「罪の支払う報酬は死である。」ローマ6:23

律法を犯す = 罪 = 死

ということです。
さて、解決策があるといいましたが、それがこのローマ書6:23後半に書いてあることです。

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」ローマ書6:23

「そうかぁ。。永遠のいのちかぁ~難しそうだな~」と思われるかもしれません。
それでは、どうやって永遠のいのちを手に入れるのでしょうか?
先ほどのローマ書の箇所では、永遠の命は神の賜物、と書いてありました。「賜物」というのは贈り物ということです。贈り物は何か支払って買うのではなくて、だれかからもらうもの、つまりただ、無料ですよね?

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」エペソ人への手紙2:8-9

という事は、

救い ≠ 行いによる 
救い = 無料

ということになります。

私たちがどんなに頑張ろうと、私たちがどんなにいいことをしようと、自分の力では救いは手に入らないのです。

では自分の力では手に入らないのだったら、どうやって救われるのでしょうか?

ここで3つのステップを説明します。

1.自分が罪人だと認める。

病人が「自分は病気ではない」と言っていたら、病院に行くこともありませんし
医者に病気を治してもらうこともできません。それと一緒で、私たちも、自分たちが罪
人だと認めなければ、救い主の必要性も感じないのです。

「 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」
ローマ3:23

聖書は人類のすべてが罪を犯した、といっています。どんなにいい人に見えても、
私たちは皆、罪を犯しているのです。

2.イエスが救ってくださると信じる。

イエスは私たちのために天の都からこの地上に来て、私たちのために死んでくださ
いました。そして、私たちが罪によって死ぬべきことになっていましたが、私たちの身代わりになって私たちの罪を背負い、死んでくださったのです。

「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」
使徒行伝16:31

私たちがイエスを信じて、心の中に救い主として受け入れるとき、私たちは救い得ることができるのです。

3.罪を告白する。

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。 」
ヨハネ第一1:9

神様は私たちの罪悪感を取り除き、平安を与えてくださいます。また、過去の罪を許してくださるだけではなく、私たちを清め、罪を犯さないように変えてくださるのです。そして、わたしたちの醜く、荒れた心を、清らかな新しい心に変えてくださる、と約束してくださっているのです。

皆様もそんな神様を心の中に今日、受け入れてみませんか?必ず後悔することはあ
りません。



著者:ミラージョエル
編集者:森 春香

7/15/2012


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2012年7月8日日曜日

停電

「停電」

 サザンアドベンチスト大学のあるチャタヌーガ一帯は、いま嵐により停電しています。女子寮の一部屋の窓ガラスは、強風により割れてしまいました。夏休み中は寮に残っている生徒は20人程度と少なく、幸いだれも住んでいない部屋だったので怪我人はありませんでした。停電はまだ続いているのですが、パソコンは充電されていたので何か書いてみようと思い、こうして書いています。

 停電すると、いつもついている電気やクーラーの音がすべて無くなり、寮内はとても静かになります。そこで色々なことを考えました。例えば、「もしこのまま電気が一生もどってこなかったらどういう生活になるだろう?」そうなれば、日の出とともに起きて、洗濯機は動かないのでどこかの川へ行って手で洗濯をして、炊飯器も使えないので火を起こしてご飯を炊いて、日の入りとともに寝るような、一生野宿のような生活になるのか、なんて想像をしていました。そうしているうちに実際に日が暮れてきたので、暗くなる前に、以前ともだちに貸してもらっていた希望の讃美歌から何曲か歌っていました。するとこの讃美歌にたどりつきました。264番「望みも消えゆくまでに」です。 

1 望みも消えゆくまでに
世のあらしに悩むとき
数えてみよ主の恵み
ながこころは安きをえん

  (くりかえし) 
数えよ主の恵み
数えよ主の恵み
数えよひとつずつ
数えてみよ主の恵み

2 主のたまいし十字架を 
担いきれず沈むとき
数えてみよ主の恵み
つぶやきなどいかであらん

3 世の楽しみ 富 知識
ながこころをさそうとき
数えてみよ主の恵み
天つ国のさちに酔わん

 この讃美歌はローマの信徒への手紙8:28「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」をもとに作られました。 

まさにこの嵐の状況にぴったりだと思いました。便利な生活になれて、電気があるのは当たり前という生活をしているわたしたちは、嵐により停電になって始めて電気の便利さ、ありがたさに気付かされます。もしくは、ありがたさに気付かず、「なんでこんなときに停電するの? 計画が台無しになってしまった!」などと苛立ちを覚えたりします。この電気のように、いつもあって当たり前だと思っているたくさんの神様の恵みが、わたしたちの周りにはたくさんあります。神様は毎日、わたしたちが感謝すらしない恵みをたくさん与えてくださっているのではないでしょうか?そして、わたしたちはそれらが取り去られてしまった時に、そのことで怒ったり、悲しんだり、いらいらしたりします。しかしそんなときでも、神様からの恵みを数えてみるのはどうでしょうか?わたしが停電中に神様の恵みを数えてみたら、「自分には気持ちよく寝られるベッドが与えられていて、雨をしのぐ屋根もあり、嵐の中に放り出されたわけじゃない。ひとりぼっちじゃなくて友達が一緒に寮にいる、また、電気は止まったけど水はでる」等々、普段は考えもしないような感謝すべきことが次々と出てきました。
更に、停電中に廊下で新しい友達を作ることもできました。神様は、わたしたちが感謝もしくは気づきもしない祝福をたくさん与えてくださっていると思います。生きていること、毎朝目が覚めること、空気、お水、太陽の光など神様の恵みを数えてみてください。数えだすときりがありません。そこが鍵だとわたしは思います。神様の恵みを数えていたらきりがありません。
でも、そのきりがないほど与えられている神様の恵みを数え続けるならば、わたしたちの心は他のものに向くことはありません。もし神様の祝福に日々気付き、もっと感謝できるようになったのなら、わたしたちの心はどんなに満たされることでしょうか。そして、停電のような時にこそ、神様の恵みに心を向けることが必要だと思います。なぜなら、何かが取り去られてしまったとき、大切なものを失ったとき、大切な人がいなくなってしまったときに、私たちの心は揺らぐからです。サタンの誘惑により、わたしたちは神様の愛を疑ったり、神様の存在を疑ったり、他人に理不尽にも怒りをぶちまけたりしてしまうことがあります。でも、神様に心を向け、神様の恵みに気付き、神様の計画は万事を益としてくださるということを信じる時、平安がわたしたちの心の中に流れ込みます。そして神様を、心を尽くし、魂を尽くして求めるとき、わたしたちは神様に出会うと聖書には約束されています。申命記4:29には「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」とあります。また、エレミヤ書29:12-14にも「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」と書かれています。神様の深い恵みを日々発見していきたいです。

著者:森 春香
編集者:品末 拓真



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2012年7月7日土曜日

言葉遣い

言葉遣い 

「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
ルカによる福音書 6章45節

最近、英語のウェブサイトを日本語に翻訳するお仕事を頂きました。このお仕事をやっていく中で、日本語には、同じような意味でも様々な表現方法があることや、微妙に違った意味合いをもつ言い回しがたくさんあることを実感させられました。そして、日本語は丁寧な言葉遣いを心がける美しい言語だと思いました。相手の存在を認め、尊重する態度が示された丁寧な言葉遣いが日本語には数多くあります。

言葉遣いは礼儀として気を付けるのが当たり前であり、社会でうまくやっていくためには良い言葉遣いを身につけることが必要です。さらに、言葉遣いはその人自身の心の状態をよく表します。わたしたちはほぼ毎日だれかと会話をするわけですから、毎日どのような言葉を使ってどのように話すかは、わたしたちの態度そのものにつながると思います。

さて、言葉遣いについて聖書はどのようなことを言っているのでしょうか?ルカによる福音書6章45節には「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」と書かれています。

「自分はこんなことを言うけど、本当はそうは思っていないよ」と言う人がいるかもしれません。では冗談について考えてみましょう。冗談で友達をからかって、「本当は思っていないからいいんだよ」とか「冗談だよ~本気にしないで」という人がいます。しかし、もしからかわれている人に冗談が通じなかったらどうでしょう?冗談を本気にとらえてしまったらどうでしょうか?わたしはアメリカに来たばかりのころ英語があまりしゃべれず、日常会話を理解するのも大変だったのに、周りの学生がやたら冗談好きで冗談を頻繁に言ってきました。やっと相手が何を言ったか分かったと思った矢先、「ハハハ冗談だよ!」と言われさらに訳が分からなくなるということが何度もありました。彼らにとっては面白いであろうアジア人に対するジョークなどもたくさん言われましたが、わたしには全然おもしろくないということもありました。冗談を言うにも気を付けないと、思わぬところで人を傷つけてしまうことがあるということを心掛けておく必要があると思います。なぜなら、自分にとってはおもしろくても相手にとってはおもしろくなく、むしろ不快な思いをさせてしまうかもしれないからです。

言葉遣いに気を付けることは、結局は相手を思いやる心遣いであり、聖書が言うように良いものを入れた心の倉からは良い言葉が、悪いものを入れた倉からは悪い言葉がでてきます。それでは、聖書が言葉について他に何と言っているか見てみましょう。

箴言13章3節「自分の口を警戒する者は命を守る。いたずらに唇を開く者は滅びる。」

箴言16章28節「暴言をはく者はいさかいを起こさせる。陰口は友情を裂く。」

箴言15章1節「柔らかな応答は憤りを静め 傷つける言葉は怒りをあおる。」

箴言16章24節「親切な言葉は蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。」



コロサイの信徒への手紙4章6節では「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」と勧められています。わたしたちの言葉は人を励まし、勇気づけ、慰めることもできれば、人をいらだたせ、怒らせることもできます。そして、どのような言葉をどのように話すかは、わたしたちが決められることです。

もしわたしたちが心から神様に仕えたいと望んでいるのなら、神様の品性を映し出すような言葉遣いを心掛けるべきではないでしょうか。愛をもって仲間を励まし、褒め、感謝し、また慰めることのできる言葉を毎日選んで使っていきたいです。

著者:森 春香
編集者:品末 拓真



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2012年7月2日月曜日

聖書って?

聖書って?

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」テモテへの手紙二 3:16

みなさんは聖書という本を読んだことがありますか?聖書にはどんなことが書かれているのでしょうか?今回はまず聖書がどういう本なのか、聖書の魅力を図書館の「おすすめの本紹介コーナー」風に書きました。


著者:神様によって導かれた約40人の異なる背景をもった人たち―モーセ、ヨシュア、サムエル、エズラ、ダビデ、ソロモン、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、ヨナ、マラキ、パウロ、ペテロ、ヨハネなど。

いつ書かれたの?1600 B.C.A.D.90ごろ。約1500年にわたって書かれました。

内容:聖書は66冊の本が集まってできています。前半は「旧約聖書」と言い、39冊の本からできています。後半は「新約聖書」と言い、27冊の本からできています。聖書には、人間がどこから来たのか、死んだらどうなるのか、神様の計画、神様を信じた人たちの歴史、戦い、歌、祈り、イエス・キリストの人生、悪魔の働き、又、私たちが今日どう生きるべきか、何をするべきなのか、周りにいる人に対してどう接するべきか、愛とは何か、罪とは何か、信仰とは何か、イエス・キリストを信じることによる救いとはどういうことか、天国はどんなところか、などが書かれています。

 聖書ってフィクションなの?:「聖書はただのおとぎばなしだ」という人はもちろんたくさんいます。しかし歴史と照らし合わせてみると、聖書にはその時代を治めていた王様が登場したり(バビロン王国のネブカドネザル王など)、実際に歴史上で起きた出来事(ノアの時代の大洪水、457B.C.のエルサレムの神殿の再建、A.D.31のイエス・キリストの十字架など)が記録されています。あなたも聖書を勉強すればするほど、聖書がフィクションではないと確信するはずです。

聖書の魅力:聖書は分厚い本です。こんな分厚い本読めないよ!と思うかもしれません。しかし時間をかけて少しずつ読んでいく時、あなたの人生の見方が変わると思います。聖書は様々な職業や立場の人によって書かれました。羊飼い、取税人、預言者、イエスの弟子、医者、伝道者などです。彼らの体験や、神様が彼らに与えられた希望のメッセージが聖書には書き記されています。あなたがいま経験している喜び、悲しみ、困難を同じように味わった人々の話が書かれています。聖書には素晴らしい成功の話ばかりが書かれているわけではなく、たくさんの堕落した人生、高慢による失敗、間違った選択、その結果の絶望の中での心の叫びを歌にしたものなどもあります。聖書の中には皆さんも共感できる箇所が必ずあるはずです。

神様によって導かれて書かれたってどういうこと?: 聖書のテモテへの手紙二 3:16に「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と書かれています。どういうことでしょうか?神様は、約40人の著者をまるでロボットの様に扱い、一字一句コントロールして書いたのでしょうか?あるクリスチャンはそうだと信じています。しかし、聖書を原語であるヘブライ語やギリシャ語で読むと、それぞれの著者の言葉遣いの違いがわかります。また、著者それぞれの背景に基づいたものごとの見方などが話に表れているのもわかります。そして人間の意志を尊重し強制することのない神様の性質を考えると、神様が一字一句すべて著者に与えて書きとらせたとは考えがたいです。神様は聖霊によって著者たちの心に語りかけ、書くべきことを示されたと私は信じます。聖書は、神様に導かれて書かれたので、1500年にもわたって40人もの著者によって書かれたにも関わらずそれぞれの箇所のつじつまが合い、同じ神様の教え、約束が記されています。 

みなさんも読んでみませんか?
一度読んだ本は結末が分かってしまっていて、もう読みたくないと思うことがあります。しかし、聖書は読めば読むほどおもしろい本です。奥が深く、一度読んだだけでは正直よくわかりません。何度も読み続ける必要があると思います。そして同じ箇所にしても、今日読んだ時よりも1年後に読んだ時の方が自分にとって更に意味のあるものになっているかもしれません。今までの歴史上、この聖書に書かれてある言葉を勉強し、信じ、実行してきた人たちがたくさんいます。聖書の言葉を守るために人生をささげ、命をも惜しまなかった人たちがいます。果たして聖書とはどういうものなのでしょうか?それは自分自身で読んでみて体験してください。また、聖書を読む前には必ず、よく理解する力が与えられるように神様にお祈りしてください。聖書を読むことで、神様の愛の深さを日々発見して頂きたいです。

著者:森春香
編集者:品末拓真

2012年7月2日



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2012年6月24日日曜日

紙とペンの実験


「紙とペンの実験」

「苦汁と欠乏の中で貧しくさすらったときのことを決して忘れず、覚えているからこそわたしの魂は沈み込んでいても再び心を励まし、なお待ち望む。」 哀歌3:19

ソーシャルワークのクラスをとっている友達が教えてくれた実験を紹介します。みなさんも一緒にやってみてください。

2枚の白い紙と2色の油性ペンを準備してください。

1.1枚の紙の表に、一色のペンで、自分の性格や特徴を表す言葉をできるだけ多く書いてください。(例:几帳面、せっかち、イライラしやすい、我慢強いなど)
2.その紙を裏返し、そこに自分が苦しい時や悲しい時に感じること、すること、自分に対して出てくる思いを表す言葉を、さっきとは違う色のペンで書いてください。(例:不安、さびしい、自分を責める、他人に怒りを感じる など)
3.その紙をくちゃくちゃに丸めてください。
4.その紙を広げてしわをのばして、元の白い紙のようにしてみてください。

さて、このくちゃくちゃになった1枚目の紙と、何もしていない2枚目の紙を見比べてみます。1枚目の紙を見てください。自分の性格や特徴を表す言葉が書かれた面を表に掲げてみます。何が見えますか?裏に書かれた自分が苦しいとき、悲しいときに感じることやすること、自分に対してでてくる思いを表す言葉がにじみ出ています。次にその紙を裏返してみます。何が見えますか?表に書かれた自分の性格や特徴を表す言葉がにじみでています。

この実験は、人が悲しみや困難を味わった時にどうなるかということを教えてくれます。1枚目の紙がもはや2枚目の真っ白の紙と同じではないように、悲しみや困難を体験した人は、その出来事の前と同じではありません。裏に書かれた文字が表ににじみでたように、自分の性格や特徴に悲しみや困難の経験が何らかの形で影響します。

2枚の紙を机の上に置いてみると、1枚目の紙は2枚目の平らな紙に比べて深みがあります。悲しみを味わった人の心には深みがあります。2枚の紙の端を持って揺らしてみてください。1枚目のくちゃくちゃになった紙にはしなやかさがありますが、2枚目の紙はピラピラと音をたてるほどの固さがあります。これは苦難を経験した人には柔軟性があることを示しています。

この紙とペンの実験から学べることはたくさんあります。しかし、その中で今もっとも注目したいのは、わたしたちが苦難の中にある時にわたしたちはどう変えられるか、そしてどうやって苦難の中にあっても希望を見つけられるかということです。わたしたちには生きている中で必ず苦難がやって来ます。心は傷つき、深い穴のどん底にいるような、辛くて悲しい思いをすることも多々あるはずです。ヘブライ人への手紙12章5節には「わが子よ、主の鍛錬をかろんじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」とあります。

       わたしたちが悲しみ苦しむことを神様は望んでおられません。悪いことをしたから神様から天罰が下ったと考える人がいますが、テサロニケの信徒への手紙一5章9節には「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いをあずからせるように定められたのです。」と書いてあります。

神様は苦難を使ってわたしたちを鍛えようとしておられます。苦難を味わう時にわたしたちは鍛えられ、以前よりも柔軟で深い心の持ち主になります。そして、イエス様が再びこの地球に私たちを迎えに来てくださる時まで起こり続ける困難の中にあっても、哀歌3章5節がいうように、私たちは「苦汁と欠乏の中で貧しくさすらったときのことを決して忘れず、覚えているからこそわたしの魂は沈み込んでいても再び心を励まし、なお待ち望む」ことができるのです。

イエス様の再臨を待ち望みつつも苦難に打ち負かされそうになる時、わたしたちはひとつ覚えておくべきことがあると思います。1枚目の紙を裏から見たとき、自分が苦しい時に感じることやすること、自分に対する感情が見えました。しかし、表に書かれた自分の性格や特徴もにじみ出ており、見えました。つまり、苦難が私たちの性格や特徴に影響するように、私たちの性格や特徴も苦難に影響するということです。もしそうだとすれば、みなさんはどんな性格や特徴を日々築きあげ、磨いておきたいでしょうか?もしわたしたちが日々イエス様を見上げて、イエス様の性質に似せられていくのなら、わたしたちは例え苦難の中にあっても再び心を励まし、イエス様を待ち望み続けることができると思います。イエス様がどのようにこの地球で人を愛し、そして愛され、誘惑に負けずに過ごし、わたしたちの罪のために十字架にかかって死なれたことを、毎日考えてみてください。わたしたちと同じように苦しまれたイエス様は、わたしたちがいま感じている悲しみや辛さをよく分かっておられます。そして、イエス様はわたしたちを助けたいと願っておられます。イエス様に助けを求め、完ぺきな模範として見つめつつ、毎日を歩んでいきたいです。

著者:森春香
編集者:品末拓真


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2012年6月22日金曜日

なぜ苦しむ

「なぜ苦しむ」

この世の中には楽しいことや嬉しいこともあれば、つらくて悲しいこともあります。自分の人生と他人の人生を比べて不公平に感じることがあるかもしれません。なぜ私たちは苦しむのでしょうか?なぜ涙を流さなくてはいけないのでしょうか?

聖書のなかにある答えを探してみましょう。

創世記の1章31節をみると、神様がこの地球を創造されたときの記録があります。

「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。」創世記1:31

神様が言った「はなはだ良かった」というのは苦しみ、痛みも含めて「良かった」のでしょうか。もしそうだとすれば、神様は私たちの苦しみ、悲しみを見て喜んでいるということですよね。でも、幸いにも聖書はそう書いていません。なぜかというと、創世記の3章に悲劇の話があるからです。

地球のはじめ、エデンの園には一番はじめに神様によって創造された人間、アダムとエバが住んでいました。

「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、

ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」 創世記3:1-3

女とはエバのことです。

では蛇とは誰のことでしょうか?どこにでもいる普通の蛇がエバに近づいてきて話しはじめたのでしょうか?

聖書の終わりの書物、ヨハネの黙示録を見てみると、蛇はサタン、悪魔にたとえられています。

「彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへび、、、」ヨハネの黙示録12:9

悪魔の起源についてはまた今度お話しますが、今は創世記の話に戻りましょう。

「へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。」

神様は「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」創世記2:17と言いました。サタンは神様と正反対のことを女に言いました。

なぜ神様は善悪の知識の木の実を食べてはいけないといったのでしょうか?ただの木の実なのに、なにか特別な理由があったのでしょうか?

神様は良いものをすべてアダムとエバに与えました。でも善悪の知識の木の実は食べてはいけないとおっしゃいました。なぜかというと、神様はアダムとエバに自分自身で選択する自由を与えたかったからです。神様はアダムとエバに幸せになってほしいと願っておられました。そして神様はアダムとエバを創造したので、何が彼らに、そして人間に一番良いかを知っておられます。そして神様の法則に従ってほしいと願っています。しかし、神様は彼らを愛しているので強制はなさいません。なので神様は、神様以外の道も選択肢として与えられたのです。それがエデンの園の中にある「善悪を知る木」だったのです。

へびであるサタンは善悪の知識の木の前に立っているエバに、また嘘をつきました。

「『それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです』。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 」創世記3:4-6

アダムとエバは神様が食べてはいけないといった実を食べました。それは罪でした。この罪を犯したゆえにすばらしいエデンの園を離れなければなりませんでした。そして、「罪の支払う報酬は死である。」とローマ人への手紙6:23に書いてあるように、アダムとエバは罪の報酬を受け、死ぬべき身となりました。そしてこの世界にも罪の結果として、苦しみ、悲しみ、そして死が入ってきました。今、この世のすべての苦しみ、犯罪、そして悪はこの罪のためです。アダムとエバが罪を犯した結果、人類はその報酬を受ける身となってしまったのです。

ここで神様はアダムとエバを簡単に消すこともできました。しかし、もしそうしたら人間は神様を愛するから従うのではなく、恐れて従うようになってしまいます。そこで、愛の神様は、ある希望をアダムとエバに与えました。そしてその同じ希望を神様は今日わたしたちにも与えておられます。

「しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」ローマ6:23

イエス・キリストを信じることによって罪からの救いを約束されたのです。そして御子イエスを受け入れる人を神様は天国に連れて行ってくださるのです。

次回は「救いとは」と題してお話させていただきます。

ミラージョエル

編集者:森 春香

2012年6月22日


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2012年6月20日水曜日

「テクノロジー以外なら…-コロンビアでの経験」

「テクノロジー以外なら-コロンビアでの経験」

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」
フィリピの信徒への手紙4:13

              コロンビアへの伝道旅行はShareHimという団体を通して行われました。ShareHimは説教者にプロジェクターと、既に完成されたお説教のスライドショーが入っているパソコンを貸してくれます。説教者はそのスライドを勉強し、自分の経験をお話の中に入れたり写真を追加したりして編集して、それを練習することが求められています。私たちも毎日、それぞれの教会の集会に行く前にお説教の編集、練習、最終確認をしていました。そんなある日経験したことをお話します。
ShareHimによってつくられたスライドショーは、シンクロナイザーというプログラムによって聴衆用スライドと説教者用スライドを同時進行できるようになっていました。つまり、教会で実際にお説教している時は会堂前方のスクリーンには聴衆用のスライドが映し出され、私を向いているパソコンには説教者用のノートが出るようになっていました。私がリモコンのボタンを押すと、聴衆用スライドと説教者用スライドが一緒に次に進んだり前に戻ったりする、という優れたプログラムでした。 
              ところが、このプログラムでスライドを編集するのは中々ややこしくて、特にパソコンがあまり得意ではない私にとってはどうしたものかと思うことがたびたびありました。しかし有難いことにあまり大きなトラブルもなく、16日間続くこのキャンペーンもあと3日で終わり、残されたお説教もあと4つという日まで来ました。わたしはその水曜日の集会のあと、ホテルに帰ってきて残りすべてのお説教を復習していました。そこで気付いたのは、最初の数枚のスライドの順番がバラバラになっているということでした。私はそれを編集するためにスライドを追加したり削除したりしていました。しかしその内わたしはよく分からなくなってしまってやり直そうと思い「リセットする」という項目をクリックしました。そうすることで自分が編集したものがすべて元通りになるはずでした。ところが、わたしが「リセットする」という項目を押した後そのスライドを見てみると、聴衆用と説教者用のスライドが15枚程ずつずれていて、全体にかなりのずれが生じていました。「これは大変なことをしてしまった!」と私は焦りました。ずれてしまった聴衆用と説教者用のスライドを再び一致させるためには相当な時間が必要でした。私は何時間も掛けてそれを編集し、ついには聴衆用と説教者用のスライドショーを一致させることができました。また、それを声に出して練習する時間も残されていました。「神様、ちゃんと編集してさらに練習するための十分な時間を与えてくださって感謝です。」と私は祈り、木曜日の集会へ向かいました。
お説教の練習をしている仲間たちです。
              無事教会に着き、ソングサービスの後に通訳者のホスィアスと一緒に登壇しました。まずは次の集会のトピックを紹介し、はじめのお祈りをしました。そして説教を始めようとしてふと気づいたことは、確かに直したはずのスライドが、説教者用のスライドが聴衆用のスライドより一つずつ前にずれているということでした。わたしは心の中で「なんでずれてるんだー?どうしよう!」と思いましたが、そのまま進む以外どうしようもなかったので、一つずつずれたスライドを見ながらお話をすることにしました。パソコンの説教者用スライドをパッと見て覚え、急いでスライドを進めて聴衆用スライドと合わせてさっき覚えたことを言う、それを15回ほど繰り返しました。その日のスライドショーは全部で95枚ありました。「神様、果たしてわたしはこの方法であと80スライドも進むことができるのでしょうか?」と心の中でお祈りしていました。そうしたら、一つずつずれたスライドにも徐々に慣れてきて、このほうがパソコンにあまりとらわれずに自然にお説教ができるような気がする、とさえ思いはじめてきました。ところが、20スライドあたりでリモコンが突然動かなくなったかと思うと、私のパソコンと聴衆用のスクリーンが真っ黒になりました。私は「ついに一番恐れていたことが自分にも起きてしまった」と思いました。サザンアドベンチスト大学から一緒に来ていた何人かの仲間たちから、お説教中にプロジェクターが動かなくなったとか、コンピューターが動かなくなったという話を聞いていました。自分にはそういう問題は起こらないでほしいなと思っていました。しかしいま自分の目の前にあるのは、なぜか真っ黒のパソコンの画面と聴衆用スクリーンでした。
              わたしは、フィリピへの信徒への手紙4章13節の「わたしを強めてくださる方(神様)のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」という聖句を知っていて信じているつもりでした。ところが前から私の頭の中では、テクノロジーに関しては例外だと考えていました。神様と科学技術の関わりについて深く考えたことはあまり無かったのですが、頭のどこかで「パソコンや電子機器がうまく動かなくなってしまったらそれで終わり、神様がパソコンや電子機器に働くことはできない。」という神様の力を限定するイメージがありました。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしには“テクノロジー以外のことなら”すべて可能です。」と思っていました。
             真っ黒になってしまった画面をみて混乱している中、この聖句がふと私の頭に浮かびました。そこで「すべてが可能です。」って本当に「すべて」なのかな?と思いました。しかし今わたしにできることはお祈りしかないと思い「神様、あなたにはすべてのことが、テクノロジーも含めて可能だと信じます。助けてください」と心の中でお祈りしました。そして、リモコンの前へ進むボタンを2回押しました。何も起こりません。そこで前へ戻るボタンを押してみました。するといきなりパソコンとプロジェクターが復活して、パソコンには説教者用スライドが、スクリーンには聴衆用スライドが映し出されました!そして更に驚いたのは、今まで確かに一つずつずれていたスライドが、その時には完全に一致した状態になっていたということです!そこで私は、神様はテクノロジーも含めた本当にすべてのことが可能なのだなということを実感しました。そのとき神様の凄さを知ると同時に、自分の信仰の弱さを知りました。
              私たちは神様の莫大な力のほんの一部しか理解していないのだと思います。私たちは自分たちの知っている神様のイメージで神様の力の大きさを推定してしまいがちです。しかし本当は計り知れない力を持っておられる神様を信じ、助けを求めることがわたしたちには必要なのです。そして神様と日々交わることで、神様の力の大きさをもっと感じることができるのだと思います。



熱くなってしまったプロジェクターを扇風機の前で冷ましています。
著者:森春香
編集者:品末拓真
06/20/2012



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