2013年12月30日月曜日

福音への免疫16 (最終)

それでは3つ目の贈り物を見てみましょう。「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」(ヨハネの黙示録3:18)。わたしたちは正しいことと正しくないことを見分けるために、イエス様から目に塗る薬を貰う必要があります。ローマの信徒への手紙12章2節には、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と書かれています。わたしたちは霊的に事を見分ける力が必要なのです。そして、この目に塗る薬がそれを可能にさせてくれるのです。もし霊的に見分けることができるのなら、周りの出来事ばかりでなく、自分自身の心の状態をも見分けることができます。それによって、福音に対して、インフルエンザの予防注射を打ったかのように、無関心になってしまったかどうか分かるのです。イエス様はあなたの人生を霊的に新しくしてくださいます。ただ新しくしてくださるのではなく、その状態を保たせてくださいます。ヨハネによる福音書15章4節で、イエス様は何と言いましたか?「わたしにつながっていなさい」と言いました。

あなたに今、自分自身の人生について考えていただきたいです。あなたの神様との経験を思い出してください。今まで霊的に無関心になったことはありますか?イエス様の福音に対して、どっちつかずの態度をとったことはありますか?あなたは、福音に対して免疫を付けてしまうようなものに自分をさらしたことがありませんか?もしもその危険を今も感じるのなら、手をあげてください。わたしは手をあげます。その危険を感じるからです。自分の周りに起っていることを見ると、とても破滅的な世界に生きていることがわかります。世界は誘惑してきます。「これを観よう、あそこへ行こう、これをしよう。」そしてわたしたちに免疫をつけるよう促しているのです。

今、「わたしは福音に無関心になる危険性がある」もしくは、「正直もう福音に無関心にである。免疫がついてしまった」という方はいらっしゃいますか?「初めに受けた衝撃をまた受けたい」と思う方はいますか?あなたの思い当るところに、「これがわたしを福音に対して無関心にさせている」というものがありますか?エリヤの時代を思い出してください。無関心は一夜にして起こる状態ではないのです。それは徐々に起るからです。あなたはもしかすると、徐々に起った変化に気付いているかもしれません。ならばあなたは、今立ち上がるべきです。そしてイエス様の元に帰るべきです。わたしたちはもうすぐ新年を迎えようとしています(この講演会は2012年12月に行われました)。新しい目標を立てるときですね。人々は、「わたしはもうタバコを吸わない」「もうこれを観ない」などと言いますが、一週間後にはそれを破ってしまいます。しかし皆さん、イエス様の約束のもとに立てられた目標は力強いのです。あなたは、イエス様が2000年前に十字架に付けられたために、イエス様の力を受けるのです。あなただけの力ではないのです。それはもはやあなたの一方的な約束ではなく、神様が必ず守ってくれるという契約なのです。

「自分は福音に対して無関心になってしまった。その理由は聖霊が示してくださったから分かっている。だからどうにかしたい。」そう思われるのなら、今その場所で立ってください。あなたが、火で精錬された金を、身に着ける白い衣を、そして目に塗る薬を何よりも手にいれたいと望むなら、あなたのために今日特別な祈りを捧げます。自分ひとりでは無関心に勝てません。イエス様と一緒に戦うのです。イエス様はあなたを力づけると約束されました。

それでは、ひざまずいてお祈りしましょう。

天の父なる神様、この朝に、あなたの恵みに、わたしたちがまだ罪びとであったときにあなたが死によって愛を示されたことを感謝します。あなたは、私たちが理解できないこの大きな一歩をわたしたちのためにとり、天国の豊かさと栄光を離れてこの地球に来てくださいました。あなたは飼い葉おけに生まれ、一人の人間として生き、死に至るまで父なる神様に忠実でありました。そして悲惨な十字架の死をわたしたちのために担ってくださいました。イエス様、どうかわたしたちがあなたの十字架のメッセージに慣れてしまわないように、免疫をつけてしまわないように、逆に衝撃を受けるように助けて下さい。感情的なものではなく、あなたへの信頼を強めさせてくださるような衝撃を与えてください。わたしたちがあなたにつながり、安らぎ、あなたがわたしたちの中で創めたことを完成させると確信させてください。神様、今あなたの前に立っている人々のために祈ります。あなたがわたしたちに気付かせてくださったこと、聖霊がわたしたちの心に語りかけてくださったことの中で、わたしたちを徐々にあなたから遠ざけていったものがあります。わたしたちを攻めではなく、守りに変えていったものがあります。しかし神様、今この時を転換期とさせてください。わたしたちが自分の力で作り上げた約束によってではなく、あなたの契約によってです。わたしたちの内でのその良き働きをどうか完成してください。わたしたちの心に働きかけてください。わたしたちそれぞれの内にあるあなたとの関係を妨げているものを、お互いには伝えないかもしれませんが、今あなたに打ち明けます。あなたは何がわたしたちのうちにあるかをご存知です。どうかそれを取り除いてください。わたしたちがあなただけのものとなりますように。主よ、あなたの救いという贈り物を本当に感謝します。今朝、わたしたちはあなたに感謝、賛美と喜びを捧げます。主よ、あなたがわたしたちをご存じであることを感謝します。わたしたちもあなたのことを知ることができますように。これら全てを、美しい、素晴らしいイエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

福音への免疫15

その日、わたしたちのチームは飛行機に乗りました。この場所(この集会が持たれた場所)には一緒に参加してくださった方々もいらっしゃるので、今から話すこの出来事が事実だと証明してくれるでしょう。わたしたちはケニアのナイロビに着きました。そして、滞在する場所は実際に大丈夫だったのでしょうか?すべては、大丈夫ではなかったのです。その家はまだ建築中で、家具やトイレなど何もない、空っぽの家でした。わたしたちはどうしたらいいか分からず、困りました。悲惨な状況でした。滞在する予定の場所に着いてみたら、そこにはコンクリートの地面しかなかったのです。

夜、そこで寝てみると、コンクリートの上に薄いマットを敷いただけだったので体の節々が痛みました。そんなわたしたちの体の上を、たくさんの蟻が行進し始めました。蟻はわたしたちを噛み、それはもう悲惨でした。また、部屋には窓がなく、格子しかありませんでした。わたしたちの隣人はお金持ちではありませんでしたが、テレビを買うだけのお金はあり、家を地域の映画会館として開放して夜中に映画を放映していました。そのおかげでわたしたちは映画の音がうるさく、蟻に噛まれ、体が痛んで、眠れぬ夜を過ごしていました。

時は流れ、その家から出ていく日の早朝のことです。なたを持った3人の男たちがやって来て、部屋中を漁り、わたしたちの持ち物を盗んで行きました。わたしたちは深く眠っていたので、そのことに全く気付きませんでした。もし起きていたら、どうなっていたか分かりません。神様の恵みに感謝です。その後でわたしたちは集まって、これからどうしようかと考えました。すぐにわたしの頭をよぎったのは、飛行機に乗って家へ帰るということでした。

これがわたしの海外伝道旅行の経験です。誰しも海外に伝道旅行に行くのを夢みたことがあるでしょう。ヨハネ・マルコのように、パウロの話を聞いて、「わぁすごい!人々が改心してバプテスマを受けて、彼らの笑みに満ちた顔を見るなんてすばらしい。ぼくも行きたい!」と思ったことがあるでしょう。けれども、実際に行ってみると想像と違った経験をするのです。

所持物を盗難されて、これからどうしようかと考えていたとき、チームの一人がこう言ったのを今でも忘れられません。「あともう少ししたら、イエス様がこの世に来られたときの状況をもっと理解できるようになると思う。イエス様はわたしたちのために天国を手放して、この地上に来られた。天国の美しさ、豊かさ、そして栄光を、わたしたちを苦しみから救い出すために手放して、わたしたちの一人となった。あなたたちは何と言いますか?イエス様はわたしたちに無関心ではなかったのです。ならば、どうしてわたしたちが周りの人々に無関心になれるでしょうか?」仲間たちの励ましによって、わたしたちは伝道を続けることにしました。その後でわたしたちは今でも最も価値のあると思える経験しました。わたしはこの経験を伝道活動の土台としています。


わたしたちはその後、ナイロビに移って伝道しました。わたしは、大切にしていた聖書、ノート、コンピューターなどすべて盗られてしまったので、パワーポイントも使えず、ただ小さな聖書を借りて伝道したのです。しかし神様はわたしに聖霊を送ってくださり、語るべき言葉を与えてくださいました。そして人々はそのメッセージに感化されたのです。これはわたしにとって大変貴重な経験となりました。わたしたちが神様に頼るとき、神様はわたしたちにすべてを注いでくださいます。あなたとわたしが福音の衝撃を受けるためには、信仰を持ち、救いを喜ぶべきなのです。

福音への免疫14

イエス様がわたしたちに用意してくださっている3つの贈り物を受け入れ、身をもって経験するとき、わたしたちは福音の衝撃を何度も受ける者となります。これらの贈り物はわたしたちを無関心から遠ざけてくれます。

それでは3つの贈り物をひとつずつ見ていきましょう。一番目の贈り物は「火で精錬された金」です。火で精錬された金とはなんでしょう?「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(ペテロの手紙第一 1章7節)。火で精錬された金は、試練によって本物と証明された信仰を表しています。試練があなたを襲ったとき、「どうやってここから抜け出すのだろうか?」「神様はどこにいるのだろう?」と思ったことがあるかもしれません。しかし、その試練の中であなたの信仰を働かせるなら、それは火で精錬された金よりもはるかに尊いものになるのです。なぜならわたしたちの信仰は、金よりも価値のあるものだからです。わたしたちが信仰を働かせるとき、わたしたちは無関心さから一歩外に飛び出します。もし信仰を働かせなければ、信仰は弱っていきます。筋肉を使わなければ衰えていくのと同じで、霊的にも同じことが言えるのです。わたしたちが強くあり続けるためには、福音の衝撃を受け続けるためには、霊的な筋肉を動かさなければならないのです。その霊的な筋肉というのが信仰です。ところで、信仰は贈り物です。わたしたちが、「どうやったら信仰をもてるだろうか?」と心配することではないのです。それはイエス様の贈り物だからです。ただ受け入れて、イエス様があなたの内で働くことを許せばいいのです。
それでは二番目の贈り物はなんでしょう?それは「身に着ける白い衣」です。イザヤ書61章10節に、「わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。 主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる」と書かれています。「身に着ける白い衣」とはなんでしょうか?それは、救いの衣です。また、同聖句には何と書かれていますか?わたしは主によって喜び楽しみ、喜び踊ると書かれています。皆さん、もし福音の衝撃を受け続けたいのなら、喜びましょう。神様をほめたたえるのです。神様があなたにどんなことをしてくださったかを覚え、喜びましょう。神様に感謝し、礼拝しましょう。これによって、わたしたちは衝撃を保つことができるのです。イエス様は、わたしたちに無関心になってほしくありません。イエス様は地上へ降りてこられ、完全な人生を送り、あなたのためにカルバリの丘で死なれました。イエス様は、決してわたしたちに無関心ではありませんでした。それなのに、どうしてわたしたちはイエス様に対して無関心になれるのでしょう?

あるお話をします。わたしは7年ほど前に東アフリカにあるケニアという国へ伝道旅行に行きました。わたしにとって第三世界へ行くのは初めてだったので、どのように準備をしたらいいかわかりませんでした。そこで、他の人の話を聞いたり、読んだりして情報を集めました。ある時、ケニアにいる友人から彼の家に滞在するように招かれました。彼とはEメールでやりとりをしていて、わたしが、「これだけの人数で行くけれども、本当に泊まる場所はあるの?」と言うと、「大丈夫だよ」と返事が返ってきました。またわたしが、「これだけの人数で行くけれども、お手洗いや部屋数は足りるの?」と質問すると、いつもとおなじ「大丈夫だよ」という返事が返ってきました。

福音への免疫13

あやふやな反応のアテネの人たちに、パウロはさらにイエス様の復活と最後の審判についても語りました。この世には確かに正しい行いと不正な行いがあり、人々は自分の行いの責任をとらなければならない日が来ると伝えました。彼らはパウロのメッセージを嫌がりました。しかし、立ち上がってパウロを追い出したりもしませんでした。その代わりになんと言ったでしょうか?「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(使徒言行録17:32)。これを今の時代に当てはめるならば、「今日のお説教をありがとう、また来月」といったところでしょうか。「素晴らしいお説教でした!じゃあまた来月」一体どういうことでしょう?ここに彼らの立ち位置が見られます。そして、わたしたちの多くもこのアテネの人々のように福音に無関心に生きているのです。
パウロはアテネでの人々の暮らし方を使徒言行録17章21節でまとめています。「すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。」皆さんは誰かこういう人を知っていますか?ただ新しいことを聞いたり話したりすることにだけ時間を使っている人たちです。新しい情報を手に入れて分析するけれども、決断はしない、ただ聞くだけで答えを出さない人たちです。「もう既に何千もの偶像をわたしたちは持っているんだから、パウロが来ても、彼をアレオパゴスに立たせてしゃべらせておけばいいだろう」と思い、結果ある者はあざ笑い、ある者は「また今度聞かせてもらおう」と言ったのでした。この無関心さ。わたしたちは今日、まさにそのような世界に生きているのです。無関心さは今世界が対面している問題であり、さらに教会が対面している問題でもあります。これはわたしとあなたが対面している危機なのです。
このメッセージの最後のポイントにやってきました。では、わたしたちはどうすればいいのでしょう?わたしたちは先ず初めにイエス様に出会った時の衝撃について学び、次にどのようにしてその衝撃を失い無関心になってしまうかを学びました。そこで最後に、どうやったら初めに受けた衝撃を保つことができるのか、どうやったらイエス様の福音が心のうちに満ち溢れるのかを学びましょう。何度も何度も衝撃を受け続けるにはどうしたらいいのでしょうか?それは必ずしも感情的な衝撃ではなく、救い主であるイエス様への信頼を強めるような衝撃でなければなりません。

それでは聖書の最後の本、ヨハネの黙示録を開いてください。これは皆さんもきっと親しみのある、ラオディキアにある教会にあてた手紙です。これは今のわたしたちの時代、イエス様がくる直前に存在する教会に対するメッセージです。ここにはわたしたちの特徴が書かれています。「ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。<わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない>』」(ヨハネの黙示録3:14,15)。これを読んで、イエス様が終わりのときの教会は無関心であるということを知っておられたのは興味深いです。イエス様は知っておられました。「むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(同15,16節)とイエス様は言われました。そんなわたしたちに、イエス様は素晴らしい贈り物をしてくださいます。「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」(同18節)。イエス様はわたしとあなたに、とても価値のある3つの贈り物を用意されておられるのです。

福音への免疫12

しばらくした後、ヨハネ・マルコは再び伝道旅行に行きたいと言いました。パウロは「ありえない。もう伝道旅行には連れてはいかない」と言っていましたが、バルナバはもう一度チャンスを与えたらどうかと提案しました。そこでパウロとバルナバの意見があまりにも強く衝突したので、バルナバがヨハネ・マルコを連れて行き、パウロは他の人を連れて、別々の伝道旅行を始めました。後々、新約聖書にあるパウロの書いた本には、パウロがヨハネ・マルコに感謝している場面が書かれています。パウロが牢屋にいたときに、「この人にぜひ訪ねてきてほしい」と彼が願ったのは誰でしたか?ヨハネ・マルコです。彼らの関係は、最後には良いものとなりました。
              このお話のポイントは、伝道旅行は簡単ではなかったということです。一世紀に福音を伝えることは簡単ではなかったのです。パウロは石まで投げられたのです!人々があなたに投げつけるための石を持ってあなたに寄って来たらどうしますか?パウロは、皆が石を投げ終わったら立ち上がって、「さあ次の町へ伝道しに行こう」と言うような人でした。想像できますか?パウロは誰も止めることのできないような人でした。「殺すぞ」と言う人がいれば、「死ぬことは得ることだ」と言い、「生かしたまま追い出す」と言われれば、「イエス様のために生きる」と言い、「うちのめしてやる」と言われれば、「この世での苦しみは、将来に来る栄光に比べると、取るに足らない」と言い、「牢屋に入れるぞ」と言われれば、「じゃあ讃美歌を歌って、牢屋の番人たちに福音を伝える」とパウロは言いました。彼を揺さぶることは誰にもできなかったのです。何をされても、パウロは福音を宣べ伝えました。そしてその福音は、はっきりと伝えられ、はっきりとした反応がありました。
              ところが実は、あいまいな反応をした町が一つだけありました。それはアテネでした。パウロは様々な町へ行き、追い出されるか新しい教会を建てるかのどちらかの反応を得ていました。アテネでも同じことが起こると思っていたことでしょう。パウロはアテネにつくと、優秀な教育を受けた大変賢い哲学者たちに出会います。ギリシャ帝国からの人々です。その頃はローマ帝国でしたが、彼らはギリシャの哲学を持っていました。ギリシャの哲学はすみずみまで浸透していたのです。そのなかでパウロは宣教することになりました。「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた」(使徒言行録17:16)。パウロは町へ行き、福音を受け入れてくれる人を探し求めていました。しかし、ギリシャの良い教育を受け、洗練された人々は、パウロのメッセージに疑いをもちました。人々はパウロに語る機会を与えるため、彼をアレオパゴスというアリーナに連れてきました。パウロが何百人、もしくは何千人もの群衆の前に立っているのを想像してみてください。「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、<知られざる神に>と刻まれている祭壇さえ見つけたからです」』(同22,23節)。面白いことに、パウロは彼らが拝していた数々の偶像の中から、「知られざる神」を話題に取り上げて福音を伝えます。今回このことについては詳しく話しませんので、ご自分で使徒言行録17章を読んでみてください。そこにはとても力強いパウロのメッセージが書かれています。アテネの人々が言っていた「知られざる神」とは、彼らの知らぬ神を指していました。「それは真の唯一の神で、この神は他の偶像にはるかに勝るのです。なぜなら、この神は人の手によって造られなかった神殿に住み、どんな創造物よりも優れ、さらに創造主であるからです。しかもただの創造主ではなくて、この神はご自身の創造した人々の名前、出生地、そしてどのような人生を歩んでいるのかを知っているのです。この神は遠くから眺めている神ではなくて、近くにおられる神である」とパウロは語りました。しかし人々はパウロのメッセージに動かされず、「本当にそうなのだろうか…」とあいまいな反応をしていました。

福音への免疫11

わたしたちは、福音に免疫をつけることを避けなければなりません。どうしたらいいのでしょうか?初めてあなたが福音の衝撃を受けたとき、あなたはナタナエルが初めてイエス様に出会った時のようにいちじくの木の下から出てきて、イエス様があなたの創造主であり贖い主である、またあなたのことをすべて知っておられる方だと分かり、イエス様が神の子であると叫び、献身してイエス様にどんな時も従いたいと思ったことでしょう。しかし人生の半ばで、初めのこの衝撃を失ってしまったのです。きっと多くの方が共感できるでしょう。そして福音に無関心になってしまったのです。前は真実を聞いたら、「わたしは何をしたらいいのか?」と真剣に探していたのに、今は、「お昼ご飯はまだかな」と言っています。福音に免疫をつけてしまい、それに全く反応しなくなってしまったのです。しかし聖書の中には、福音に対して免疫をつけない人々もいました。彼らは興味をもって福音のメッセージに反応しました。
              わたしは使徒言行録が好きです。なぜかと言うと、使徒言行録に登場する人々は福音に無関心ではないからです。使徒言行録を読むと、パウロがいたるところへ行って福音を宣べ伝えたのがわかります。そしてパウロは各地で教会を立ち上げるか、そこから追い出されるかのどちらかでした。中間はありませんでした。町へやってきたパウロはイエス様のことを伝え、人びとはそれを愛したか憎んだかのどちらかでした。なぜでしょう?それは、パウロのメッセージが人々を中間に立たすことを許さないものだったからです。パウロは宣教し、そのメッセージを聞いた人々は心を動かされました。彼らには、福音に近づくか、この男を追い出すかの二択しかありませんでした。どちらつかずということがなかったから、わたしは使徒言行録が好きです。

              使徒言行録には、あまり注目されない、気を付けていなければ見過ごしてしまうお話が書かれています。それは青年ヨハネ・マルコの話です。彼はエルサレムにて母親と暮らしていました。使徒たちはよくエルサレムに集まって、神様が異教徒たちにどのような働きをしたのか報告しました。ヨハネ・マルコはその報告を聞いていたので、伝道という働きがどのようなものか少し耳にしていました。そして自分もその伝道旅行に参加したいと思いました。それでパウロに、「僕もその伝道旅行に参加したい!」と言ったのです。さて、パウロと伝道旅行に行くのはどういったものだったのでしょう?皆さんのなかでパウロと伝道旅行に行きたいと思う方はいらっしゃいますか?本当に行きたいですか?ヨハネ・マルコはパウロと伝道旅行へ行き、お説教をしましたが、人々は怒ってパウロとヨハネ・マルコを町から追放してしまいます。そこでヨハネ・マルコは、「こんな旅行をやりたかったんじゃない!」と言って、エルサレムの家へ帰っていきました。

福音への免疫10

さて、イエス様の時代はどうだったのでしょうか?エゼキエル書からマタイによる福音書11章へ移りましょう。無関心とその危険性を皆さんに知っていただきたいです。皆さんの多くは既に無関心を経験しているかもしれません。ですからここに書かれているのは、わたしたちに対するメッセージなのです。イエス様が公共の場で伝道し始める前に伝道していた人の話です。それは偉大な預言者、真実を語ったバプテスマのヨハネです。エルサレム中の人々が彼の言葉を聴きに来ました。想像できますか?マタイ11章13,14節にてイエス様はバプテスマのヨハネのことをこのように言いました。「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。」興味深いことに、イエス様が生まれる400年ほど前に預言者マラキは、「預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と神様が言われたと預言しました。つまりイエス様は、「あなたがたが探している預言者エリヤとは、バプテスマのヨハネのことである」と言ったのです。バプテスマのヨハネはそれほど力をもって福音を宣べ伝えたのです。

しかしエリヤの時代にあった無関心さは、バプテスマのヨハネの時代にもみられる傾向でした。「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』」(同16,17節)。どういう意味でしょうか?彼らは正しい反応をしなかったのです。ただ無関心さが読み取れます。誰もバプテスマのヨハネのメッセージに反応しなかったのです。

今のわたしたちの時代にも、こういった態度がみられますか?わたしたちにもこの状況に陥る危険性があります。「自分たちはあのころの人々とは違って、福音が語られるたびに心が動かされて変えられている」という人は残念ながら珍しく、右耳から左耳へとメッセージが流れていくという人が多いのではないのでしょうか?わたしたちはよく、イエス様がわたしたちにしてくださったことをお説教で聞きます。数百ものイエス様のお話を聞きながらも、この簡単な質問―わたしはイエス様のためになにができるだろうか?―をせずに日常生活に戻ることだって可能です。その結果、わたしたちは福音に対して無関心になってしまうのです。


わたしはこのお説教を「福音への免疫」と題しました。それはインフルエンザの予防注射のようなものです。注射でウイルスを少し体のなかに入れて抗体をつくらせて、インフルエンザを予防するのです。それと似たように、わたしたちは福音を予防注射のように扱っているのです。わたしたちはちょうどいい量の福音に身をさらして、もう福音から影響を与えられないようにしているのです。自分にとってちょうどいいだけ、イエス様が自分のために死なれたという話を聞くのです。わたしたちはそんなことを何回もそれを繰り返しているうちに、福音に対して免疫力をつけてしまったのです。何回も同じことを聞いてきたので、今さらイエス様がしてくださったことを聞いても、それはわたしたちに何ら影響しなくなってしまったのです。

2013年12月28日土曜日

Falling Plates



あなた、
あなたの目を見て――斑点、鮮やかな色、それぞれがユニークである
わたしはそれら一つ一つを創った。

わたしはすべてを創造した。宇宙、そしてあなたを。
わたしはあなたに性格を与えた。
わたしはあなたを清く複雑に創った。そして毎日わたしは命を与える。
わたしはあなたを愛している。

しかし、あることが起きた。
あなたはわたしに浮気した。わたしを信じなかった。あなたは罪を犯した。
あなたはわたしから自分を切り離した。
あなたはまだ生きているが、ゆっくりと死んでいる。
だからあなたは他のものを見始めた。
(『幸福』検索)
空虚感を埋めるために。
しかしどれも上手くいかない。ただあなたをより速く殺していく。
そしてわたしたちをより遠くへと引き離していく。

何を探しているのか?
     (受け入れられること、親友関係、愛、)

わたしはあなたに死んでほしくない。
わたしはあなたを創った。滅ぼされるためではなくて、わたしを知るために。
だからわたしはあなたたちのうちの一人となった。壊れやすい創造物に。
わたしは誘惑にあった。しかし一度も罪を犯さなかった。
あなたを救うために。

あなたは多くの罪を犯した。そして誰かがその罪のために死ななくてはならなかった。
あなた、もしくはわたし。

だからわたしはあなたの罪を担った。
あなたとわたしの命を取り替えた。そしてあなたの代わりに死んだ。
それは、わたしがあなたを愛しているから。

わたしは死から復活した。
わたしは道、真理、命である。
わたしはイエスである。

わたしはあなたを責めるために来たのではない。あなたに命を与えるために来た。
わたしに頼りなさい。わたしはあなたを赦す。
永遠の命をあげよう。
わたしはあなたを愛している。
これらすべてのことをしたのはあなたと関わりを持つためである。


あなたはわたしに従いますか?

2013年12月27日金曜日

福音への免疫9

福音に対してどっちつかずで、無関心でいるということは、エリヤの時代だけに起ったことではなく、歴史を通して様々な人々が陥った状況です。エゼキエル書を開いてみましょう。驚くべきことが書かれています。エゼキエル書33章です。エゼキエルという人は神様の偉大な預言者でした。彼はバビロンの捕虜たちの中におり、預言者ダニエルが生きていた時代に生きていました。イスラエルの民は霊的干ばつ状態にありました。彼らがバビロンにいた理由は、神様の道に背いたからでした。そこでエゼキエルは神様の言葉を語り、人々が再び神を畏れ、自分たちが神の民であることを信じるよう励ましたのです。
人々が預言者エゼキエルのことをどう言っていたかに注目してください。エゼキエル33章30節です。これは神様がエゼキエルに語られた言葉です。「人の子よ、あなたの同胞は城壁の傍らや家の戸口に立ってあなたのことを語り、互いに語り合っている。『さあ、行って、どんな言葉が主から出るのか、聞こうではないか』と。」もしここで終わっていたなら素晴らしかったでしょう。人々は、神様の言葉を聞きに行こうと言っていたのです。ところが、31節を読んでください。「そして、彼らはあなたのもとに来る。民は来て、あなたの前に座り、あなたの言葉を聞きはするが、それを行いはしない。彼らは口では好意を示すが、心は利益に向かっている。」さらに32節を読んでください。「見よ、あなたは彼らにとって、楽器にあわせて美しい声でうたうみだらな歌の歌い手のようだ。彼らはあなたの語ることを聞くが、それを行いはしない。」これがエゼキエルの時代に生きていた人々の状況でした。人々は、「さあ、行って、どんな言葉が主から出るのか、聞こうではないか。」と言っていました。しかし神様は、エゼキエルはただの歌い手で、人々は聞きに来ることを楽しんでいるが、それを行わないと言いました。彼らは集会を愛し、お説教に感化されることも愛し、エゼキエル語りを聞くことも愛していました。ところが彼らは、その言葉に従わなかったのです。無関心さ――それがエゼキエルの時代の人々のいた状況でした。

無関心とは、神様に仕えていないときにだけ起ることではないのです。神様に仕えているときにでも、無関心に陥ることはできるのです。あなたは、教会に出席し、各行事に参加しながらも、心の中では無関心になることができます。聞いた言葉が右耳から左耳へとぬけていけば、わたしたちは神様の言葉に従っていないのです。神様の言葉を日常生活の中で実際に活かしていないのです。わたしたちは、エゼキエルの時代の人々と同じ過ちを繰り返しているのです。

福音への免疫8

わたしたちは、あのイスラエルの民のように無関心になっていないでしょうか?背教に敵対すること、間違った教理に反対すること、真理から外れた道に反対することは勇気のいることでしょう。心の中で真実を知っていても、もし自分の教会でなにか間違いを見つけたら、誰も責めないために口を閉じて黙っておく方が簡単かもしれません。しかし、それは神様に敵対しているのと同じ重い罪だと書かれています。あなたは声を持っています。そして声を持っていることには意味があるのです。それは真実を宣べ伝えるためなのです。責めるようにではなく、また不快な言葉によってではなく、わたしたちは愛を持って神様の恵みによって味付けされた言葉で宣べ伝えるべきなのです。わたしたちはいつ、どのように伝えるか気を付けなければなりません。
ひとつ私たちが知らなければならないことは、宗教的危機に対して私たちは黙っていてはいけないということです。わたしたちはエリヤと同じような状況に今、立たされているのです。エリヤのお話は今日のわたしたちに当てはまるお話です。あのカルメル山上の出来事の少し後、イゼベルに命を狙われていると知ったエリヤはホレブに逃げます。みなさんはこのお話を覚えていますか?そこで彼は、「わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」(列王記上19:14)と神様に言いました。すると神様は何と言ったでしょうか?「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」(同18節)。七千もの人々がバアルに伏していなかったのです。しかし、エリヤが彼らに、「いつまでどっちつかずに迷っているのか」と訴えかけたとき、彼らはただ無関心に黙っていました。偽りを行わないのは大切ですが、真実を行わなければ意味がありません。それが、神様がわたしたちわ呼び出された目的なのです。声は神様から与えられた貴重な贈り物です。声は人々を神様の知恵、そして真実を知る知恵へと導くことができます。

無関心さはわたしたちを攻めではなく、守りの位置におきます。誰も一晩で福音に無関心にはならないのです。ではどのようにして人は福音に無関心になるのでしょうか?エリヤの時はどうだったか覚えていますか?徐々にです。徐々に人々は無関心になっていったのです。毎日のディボーション(Devotion)を怠ったり、祈りは食事の感謝だけになったり、今まで観ていなかったものを観はじめたり、今まで聴かなかったものを聴きはじめたり、今まで行かなかったところに行きはじめたりするうちに、思っているよりもすぐにわたしたちは初めに受けた衝撃を忘れ、無関心になってしまうのです。福音に免疫をつけてしまうのです。そして、聖書を読んでも何も語りかけてこないのはなぜかと疑問に思うのです。お説教を聞いてもつまらないのはなぜかと悩むのです。それは、あなた自身が福音に対して中立に立つという選択をしたからなのです。

2013年12月25日水曜日

福音への免疫7

ではイスラエルの民が、霊的にも肉体的にも干ばつ状態にあったころの話を見てみましょう。それは、人々が神様の真実のメッセージに無関心になっていたときです。ヨシュア記から列王記上18章へと移りましょう。これはエリヤのお話です。このころ、イスラエルの地はすでに3年間も干ばつの状態にありました。またそれだけではなく、人々の心も干からびていました。彼らは神様の遣わされた人のメッセージに無関心で、ほかの神々を礼拝していました。そこでエリヤ(神様の遣わされた人)は人々をカルメル山へと呼び出しました。カルメル山ということを覚えていてください。そこにはバアル(偶像)を礼拝している人々や王様がいました。神様に忠実であった人は、預言者エリヤだけのようでした。群衆が集まると、神の預言者エリヤは彼らにあることを決断するように呼びかけます。それは、神様に従うか従わないのか決めなさい、というものでした。実際にエリヤがなんと言ったか読んでみましょう。

列王記上18章21節です。「エリヤはすべての民に近づいて言った。『あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」エリヤは人々に決断するよう要求しています。主が神なら主に従い、バアルが神ならバアルに従えと。それに対して「民はひと言も答えなかった」(同聖句)と書いてあります。なぜ答えなかったのでしょう?なぜなら、彼らは神様のメッセージに対して無関心であったからです。彼らは霊的に干からびていたからです。預言を勉強せず、生活を神様に捧げることもせずにいたのです。

彼らはエリヤの前に立っていました。力強い預言者エリヤです。エリヤの呼びかけに対して民は、「バアルを礼拝する」とも「主を礼拝する」とも言いませんでした。ただ何も言わずにエリヤを見つめていたのです。無関心さです。このお話の結末は、エリヤが火を降らせる神が本当の神であると言ったので、バアルの預言者たちは祭壇の周りで踊り、自らの体を傷つけてバアルを呼びかけます。ところがバアルは答えません。そこでエリヤはひざまずいて、イスラエルの部族を表わす12の石を拾って祭壇を築き、主なる神様に祈りを捧げます。すると神様は天から火を送り、焼き尽す献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くしたのです。もう主が神ではないという疑いはありえませんでした。
イスラエルの民が無関心であったように、わたしたちも多くの場合無関心であることがあります。エレン・G・ホワイトの言葉を読みます。

エリヤはまず崩れた主の祭壇を眺めてから、群衆を眺めてラッパのような明瞭な声で、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」と叫ぶ(列王紀上 18:21 )。人々はひと言も彼に答えない。大群衆の中で誰1人として、主に対する忠誠を表明する者はいないのである。欺瞞と無知とが暗雲のようにイスラエルをおおってしまったのである。すべての者が、一時にこうした致命的背信に陥ったのではなかったが、主が警告と譴責の言葉を彼らに送られた時に、それに心を留めないことが度重なるうちに、徐々にそうなったのである。義を行うことを離れ悔い改めを拒否する度に、彼らの罪は深まり彼らを天から遠く引き離した。そして今、この危機において彼らは、頑強に神のために立つことを拒んだ。(国と指導者11章より)。

福音への免疫6

どうやってわたしたちは福音に無関心になるのでしょうか?ヨシュア記24章を開いてください。旧約聖書のヨシュア記最後の章です。ヨシュアはイスラエルの民を約束の地へ導いた偉大なリーダーです。モーセはイスラエルの民をエジプトから導き出しましたが、約束の地へ行くことは許されませんでした。約束の地に民を導き入れるのはヨシュアの役目でした。ヨシュア24章は、ヨシュアがイスラエルの民を約束の地へと導いた後、年老いてもうすぐ死ぬという場面です。死に際のヨシュアはイスラエルの民が真実に専心していること、神様に専心していること、そして神様のしてくださったことを覚えていることを確認しようと思いました。これはヨシュアの最後の言葉です。ヨシュアがイスラエルの民になんと言ったのか、読んでみましょう。

「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」 ヨシュア記24章14-15節

ここでヨシュアは人々に選択を迫ります。ヨシュアはその日まで導いてくださった主に仕えるよう勧めます。

では人々がどう答えたか読んでみましょう。「民は答えた。『主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」 ヨシュア記24章16-18節

人々は主に専心していました。彼らは誰に仕えたいかよく知っていました。彼らはエジプトから導きだされ、立て続けに勝利を得、ヨシュアが彼らを約束の地へと導き入れたことを鮮明に覚えていました。そのヨシュアが今眠りにつこうとしており、彼らに二つの選択肢を与えました。主に仕えるか、ほかの神々に仕えるか。人々は、「わたしたちは誰に仕えたいかを知っています。わたしたちは主に仕えます。主はわたしたちを導いてくださいました。わたしたちはその奇跡を見ました。わたしたちは主に従います。」と宣言しました。


しかしイスラエルの民の後の歴史をたどると、彼らは神様に近づいたり離れたり、輝かしいときもあれば暗いときも多々あり、神様の御心から離れていきました。

2013年12月22日日曜日

福音への免疫5

あなたをイエス様に近づけるのは、質問が取り除かれることではないのです。イエス様を知っているあなたとイエス様を知らない人との大きな違いは、あなたにはイエス様に対する質問がなく、彼らには質問があるということではありません。本当の違いとは、あなたがイエス様を知っているということです。イエス様と個人的な関係を持っているというフレームの中でしか、わたしたちの質問は答えられないのです。わたしたちはイエス様のもとへ行かなければなりません。わたしたちは、「イエス様はわたしを知っている」ということを瞑想すべきです。「イエス様はわたしを知っている。宇宙の創造主、惑星を造り名前を知っており、それぞれの星をそれぞれの軸に定め、壮大な天国を造られた神様、その神様がわたしを知っている。」神様はあなたを知っておられます。あなたのすべてを知っておられます。あなたの体験した最大の試練、最上の喜び、あなたのすべての過ち、そして今あなたがどのような状況にあるのか、神様は知っておられます。神様がわたしたちを知り尽くしているということは、わたしたちを神様より低い立場に立たせます。ヘブライ人への手紙には、わたしたち人間は神様の御前では裸のようだと書かれています。そして同時に、わたしたちを神様との愛の関係に招いておられます。神様はこういいます。「わたしはあなたの救い主、あなたの神」と。

ナタナエルは喜びに満ちてこう叫びました。「あなたは神の子です!」これがナタナエルにとっての最初の衝撃でした。ナタナエルは、イエス様が自分を知っていたということを理解したのです。そして彼は福音を受け入れました。イエス様を受け入れたのです。これは、多くの方が共感できるであろうとても強い衝撃です。福音を初めに聞いたときの衝撃です。クリスチャン家庭で生まれ育った人でも、生まれてからずっと聞いてきたメッセージをある瞬間、「うわぁ、これは真実だ!」と実感するときがあるでしょう。「神様は存在するのだ。神様はわたしを創造されたのだ。わたしを愛しておられるのだ。わたしのために独り子であるイエス様を送ってくださったのだ。わたしを知っておられるのだ。そのお方に属したい。」そしてナタナエルが叫んだように、叫ぶのです。これが一番目の衝撃です。わたしの友達である皆さん、この衝撃を手放してはいけません。手放すことはとても簡単です。福音に対して免疫をつけてしまうことはとても簡単で、わたしたちは衝撃などなかったかのようになってしまうのです。


ここで二番目のステップにうつります。一番目はナタナエル、そしてみなさんが受けた最初の衝撃です。それは、イエス様がわたしたちを知っておられるということを理解すること、そしてイエス様がわたしたちにしてくださったことを理解することです。しかし、どれほど簡単にわたしたちはその衝撃、感動を失ってしまうでしょうか?どれほど簡単に、福音に対して無関心になってしまうでしょうか?

福音への免疫4

わたしは宣教者で、世界中を旅して聖書の教えは正しいと主張します。わたしは弁証学が大好きですし、わたしたちが持っている聖書の教えも大好きです。しかし人々の異論を取り除くことが、必ずしも彼らをイエス・キリストに近づけるとは言えないでしょう。わたしたちのすべきことは、ただ聖書を勉強するのではなく、人々にイエス・キリストを体験してもらい、イエス様との関係を持てるよう招待することです。それはまさしくフィリポがナタナエルにしたことです。「来て、見なさい。」わたしはこの場面を想像します。聖書の何かについて想像するときは気を付けなければなりませんが、どのようなものであったか想像することはゆるされています。わたしは、フィリポがナタナエルに「来て、見なさい」と言ったとき、きっとナタナエルは「でもわたしはまだ質問がある」と言ったのではないかと思います。そこでフィリポが「じゃあイエス様にその質問を持っていこう!」と言い、彼らはいちじくの木の下から立ち上がって、一緒にイエス様のもとに向かったのだと思います。
その後、何が起こりますか?とても美しいことです。ヨハネによる福音書1章47節を読んでください。「イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見」ました。考えてみてください。イエス様はナタナエルとフィリポが自分に向かって来るのを見ます。たぶんナタナエルの頭の中ではまだ質問が飛び交っていたでしょう。しかし彼は、イエス様に向かって一歩一歩近づいていきました。もしかしたらイエス様は本当にメシアかもしれない。彼は実際に自分でイエス様に会おうと向かったのです。もしかすると、「この人は本当にナザレの人なのか?」と思ったかもしれません。そこでイエス様がなんと言ったか見てください。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(47節後半)。イエス様はナタナエルの正直な心に気付いておられました。質問をイエス様のもと素直に持ってくる正直さです。いちじくの木の下から立ち上がって、実際にイエス様と関わりたい、と思い行動した正直さです。「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」とイエス様は言われたのでした。

この言葉はナタナエルを驚かせます。「ナタナエルが『どうしてわたしを知っておられるのですか』と言うと、イエスは答えて、『わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた」(48節)。考えられますか?「わたしはあなたを見た」とイエス様は言ったのです。その瞬間ナタナエルは、このイエス様の言葉によって喜びに満ち溢れて49節でこう言いました。「ナタナエルは答えた。『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』」この時点で、もうイエス様に対する質問はナタナエルの頭の中からなくなっていました。なぜでしょう?それは、どうしてナザレ出身なのかという質問に答えられたからではありません。ナタナエルがイエス様を王として、世界の救い主として認めた理由は、イエス様が彼を知っていたからです。イエス様はあなたをも知っておられます。

2013年12月18日水曜日

福音への免疫 3

しかし、この革命的な宣言に、ナタナエルはなんと答えたでしょうか?フィリポが、「ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と言った瞬間、ナタナエルはある疑いをもってしまいました。「ナザレ?ナザレから何か一つでも良いものが出てくるのか?もしメシアを探しているのなら首都のエルサレムを探すべきではないのか?例えエルサレムにいなかったとしても、ナザレからはありえないだろう。」

 ナタナエルの反応を見てください。「するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言った」(ヨハネによる福音書1:46)。ナタナエルは、嫌味を言ったわけではありませんでした。彼は真理を熱心に探し求めている人でした。いちじくの木の下でフィリポのメッセージを受けて、様々な思いがナタナエルの頭の中をぐるぐると回っていました。ナタナエルはいちじくの木の下にいるのが好きでした。「各時代の希望」には、フィリポがナタナエルのもとを訪れたとき、ナタナエルはちょうどイエス様がメシアであるかどうか考えていた、と書かれています。彼は旧約聖書の預言や、イエス様の伝道を見て、「イエス様は本当に約束されていたメシアなのだろうか?」と考えていたのでした。そこにフィリポが、「わたしたちはその方を見つけた。ナザレの人、イエスだ」とやってきたのです。イエス様がメシアかどうか結論の出ていないナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか?」と問います。彼にはまだ確信がなかったのです。この「ナザレから何か良いものが出るだろうか?」という質問が彼の頭を離れません。

これに対してフィリポは、注目すべき答えを出します。わたしたちは、どうやって福音を伝えるかを学んでいますが、このフィリポの答えはわたしたちを驚かせるものでしょう。彼は、「来て、見なさい」(46節)と言いました。この言葉の意味を少し考えてみましょう。フィリポは、ただナタナエルの横に座って、何故ナザレの人イエスがメシアであるかという根拠を一日中語ることもできました。そして一日の終わりに、ナタナエルを納得させることができたかもしれません。しかし例え、ナタナエルが質問に対する答えを見つけられたとしても、それは彼が救い主に近づくための一歩になりますか?ならないでしょう。ナタナエルはまだいちじくの木の下に座ったままであったでしょう。

フィリポは、「来て、見なさい」と言いました。わたしの友達である皆さん、わたしたちは、信仰についての質問、神様が愛ならどうして苦難があるのかという質問、キリストの復活についての質問を抱えている人に出会うでしょう。彼らはこれらの質問を持っているがために、イエス様のもとに行きたくありません。そこでわたしたちは普段、どのように答えていますか?多くの場合、わたしたちはいちじくの木の下に一緒に座ってしまうのです。座り込んで聖書の言葉を分析して質問に答えようとするのです。もちろん聖書を研究すること、その時間を持つことは必要です。しかしわたしたちは、彼らがイエス様を個人的な救い主であると体験できるように、招かなければなりません。


福音への免疫 2

それでは、ヨハネによる福音書1章を開きましょう。今からナタナエルを見ていきます。私はこのお話が大好きです。今日はこのお話を深く掘り下げて読みたいと思います。きっと多くの方が、ナタナエルの経験に共感できると思います。

ではヨハネによる福音書1:43を読みましょう。聖書にはこう書いてあります。「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた。」これは、イエス様の弟子にならないかという招きでした。「フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった」(44節)。そして45節で、フィリポはイエス様に従う決心をします。しかしフィリポは、ただ自分だけが招きに応じるのではなく、他の人も招いたのです。その招かれた人がナタナエルです。ここからがお話の本題です。「フィリポはナタナエルに出会って言った」(45節)。少しお話の先を読むと、ナタナエルがいちじくの木の下に座っていたことがわかります。いちじくの木の下に座っているナタナエルを想像してください。フィリポはナタナエルを探しています。そしてついに親友のナタナエルを見つけ、彼のもとにやっていきます。そこでフィリポは何と言ったでしょうか?「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(45節)。


わたしたちはこの言葉の衝撃を理解しなくてはなりません。いったいフィリポは何を言っているのでしょうか?いちじくの木の下に座っているナタナエルに、何と言っているのでしょうか?彼は、「わたしたちは神の子を見つけた!」と言っているのです。約束されていたメシア、この世の救い主を見つけたと言っているのです。ユダヤ人たちは、このメシアを数百年も待っていました。数々の預言が成就し、メシアが来るという希望が高まっていたころでした。そこでフィリポは、ナタナエルにこう言ったのでした。「わたしたちはメシアを見つけた!」と。「メシアを見つけた!」これは、小っぽけな言葉なんかではありませんでした。革命的な宣言だったのです。