2012年5月14日月曜日

世界各地へ伝道

今日から三週間ほど、メンバーの大半が伝道しに大学から海外へ行ってしまうので、ミニストリーとしての活動は3週間ほどお休みとなります。6月5日ぐらいに帰ってきます。森春香、福田ダニエル、品末拓真、とミラージョエル。一人一人、色々な所へと行って、毎日通訳者を通して、地元の人にお説教をして、福音を伝えてきます。

森春香はコロンビアへ行きます。
コロンビア共和国は南アメリカ大陸にあるコーヒー、バラ、エメラルド、コカインなどの産地で有名な国です。主にスペイン語を話し、人口の90%はカトリック教を信じています。アンデス山脈の標高により気候は熱帯から寒冷と幅があります。
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福田ダニエルはアフリカへ行きます。
北アフリカのSierra Leoneと言うところに行きます。Sierra Leoneと言いますと、何年か前に公開された映画Blood Diamondの話が実際起こったところです。ダイヤが世界一豊富でありながらも、権力握った者達が多くの不正をしたため、国民は貧乏のままでした。そこで、正義の名を名乗って政府を倒そうとする集団が立ち上がりました。しかし、この集団は15歳以下の子供をさらって、無理やり兵隊として人を殺させたのです。戦争は1991年に始まり、2002年に終わりました。多くの人が死に、苦しみました。一時、世界一貧乏な国となっていましたが、今は着々と立ち直ろうとしています。

品末拓真はキュウバへ行きます。
キュウバは共産党的な国です。この国では、スペイン語を話しています。ものすごく厳しい政府のルールと対応のなか、福音を伝えていきます。

ミラージョエルはインドへ行きます。
インドと言えばカレーです。いまでも、男の人と女の人の社会的重要さがはっきりと分かれています。男の人のほうが偉いと言う考えが文化の一部となっているそうです。教会でも、男の人が椅子に座っていながらも、女の人は床に座るなどと言うこともあるそうです。

これから、3週間世界各地へと福音を伝えて行きますので、私たちためにお祈りしていただければ、感謝です。伝道から帰ってきたら、また色々と報告しますので、楽しみにしていてください。

05-14-2012
南からのお便り



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2012年5月11日金曜日

ゴスペル手品1


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神様が私を抱き起こす(You raise me up)

When I am down, and oh my soul, so weary
When troubles come and my heart burdened be
Then, I am still and wait here in the silence
Until You come and sit awhile with me

You raise me up, so I can stand on mountains
You raise me up, to walk on stormy seas
I am strong, when I am on your shoulders
You raise me up--to more than I can be

There is no life--no life without its hunger
Each restless heart beats so imperfectly
But when you come and I am filled with wonder
Sometimes, I think I glimpse eternity


私が、どん底で、魂が疲れているとき、
試練が訪れ、私の心が重くなったら
その時、私は動かないで、あなたを沈黙の中待ち望みます
あなたが私と一緒に座るまで、待っています。

私が山の上に立てられるように、あなたは私を抱き起こし、
私が嵐の中を歩けるように、あなたは私を抱き起こし、
あなたの肩の上にいるときに、私は強いのです。
今の自分を乗り越える為に、あなたは私を抱き起こしてくれます。

命はない、空腹なしでは命はない。
一つ一つの心忙しい心が不完全にひびく、
しかし、あなたが来たら、私は感嘆でいっぱいです。
時々、私は、永遠と言うのを見ている気がする。

翻訳:福田ダニエル
歌:You Raise me up by Selah

この、歌が流れている最中、画像に英語の文字が沢山書かれているのは、実は全部聖書からの聖句です。出てくる聖句を一応、順番どおりに日本語でリストして見ました。合計35節あります。後で、興味ありましたらいくつかの聖句を読んで、元気を出して下さい。
詩篇5章3節
詩篇90章1-2節
詩篇107章9節
イザヤ章41章10節
雅歌8章6節
エペソ人への手紙6章10節
コロサイ人への手紙1章18節
ガラテヤ人への手紙6章9節
コリント第二の手紙1章3-4節
詩篇34章17節
ルカによる福音書9章26節
コリント第一の手紙15章58節
詩篇93章3-4節
コリント第一の手紙1章25節
歴代志上16章10節
詩篇62章7-8節
雅歌8章6-7節
エレミヤ書17章7-8節
テサロニケ人への第二の手紙3章3節
ネヘミヤ記9章5節
ローマ人への手紙8章13-14節
ローマ人への手紙5章3-4節
エペソ人への手紙6章22節
ヨハネによる福音書6章35節
エゼキエル書36章26-27節
申命記7章19節
コリント人への第一の手紙15章54節
ヨハネの第一の手紙5章20節
サムエル記上11章9節
ローマ人への手紙15章1節
ルカによる福音書1章68-70節
ピリピへの手紙4章8節
ピリピへの手紙1章9-10節
ヨシュア記1章9節
詩篇27章1節

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2012年5月10日木曜日

釣りとクリスチャンの人生にある意外な共通点。

 僕は魚が好きで、よく大学の近くにある川や湖へ釣りに行くことがあります。釣りを始めたきっかけは「魚を近くで見たい」という小さなものでしたが、経験を重ねていく中であることに気づきました。それは僕たちクリスチャンの生活と、釣りの間には意外な共通点があるというものでした。

 一つ目は物事を分析し、判断するということです。僕がする釣りはルアーフィッシングといい、疑似餌をまるで生きている小魚のように動かし、それを餌だと思った魚を騙して釣るというものです。ですから自分の実力によって釣果は左右されます。釣り場に行く前にすること、それは釣り場の環境や地形などを知ることです。その釣り場の魚は何を食べているか、水中温度はどのくらいか、気圧の変化はあるか、どこに魚がいるか、どんな色に反応するか….などがあります。このようにまず情報収集をインターネットや知人などからすることが大切です。これらをすることによって、効率のよい釣りができ、確実に魚を捕まえることが出来ます。この釣りにおいての分析と判断をクリスチャンの生活に当てはめると、それは聖書を日々勉強し、答えを見つけるためにお祈りする事になります。私達は聖書を研究することによって、何が正しくて、何が悪いのかを知ることが出来ます。神様が私達に神様の弟子として何を求めておられるかということも、聖書によって学ぶことが出来ます。第二のテモテの手紙 3:14−16には、このように述べられています。
  
自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
 
 私たちは聖書を勉強する事によって、どのように救われるのかを知り、人々にその知識を教えらえるようになるのです。何も情報を知らないで釣り場に行って効率よく釣りが出来ないように、クリスチャンも聖書研究なしで神様に正しく従うことや、人々に伝道することは出来ません。まず大きな魚(救い)を手にするには、魚や釣り場(聖書が伝えている事)を知る事です。
 釣りを始めて、魚が釣れたらとても楽しいものです。しかし、そう簡単に上手くいくことはほとんどありません。せっかく色々な情報を集めたのに、なかなか釣れない。この状況に陥ったとき、釣り人は二つの内どちらかの行動をとります。一つは「釣りをやめる」で、もう一つは「忍耐して、釣りを続ける」です。釣りのプロの人たちが必ず選ぶのは2つ目の「忍耐」です。彼らは自分の技術をあげるために、たくさん忍耐して諦めずに釣りを続けてきました。 どんなに聖書を勉強して何が正しいかを知っていても、私達は罪人で弱く、神様が教えられていることをするのは難しいです。かなり難しいです。そういう時に現実から逃げて、自分を変える事を諦める人もいれば、逆に最後まで諦めず、神様に頼ることで自分を変えていただく人も居ます。

わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」ヤコブの手紙1:2−4

霊の父(主)はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。ヘブライ人への手紙12:10−11

 周りの人はたくさん魚を釣っていたのに、自分だけ一匹も釣れなかったという経験をした事があります。でもその釣りの後、自分はなぜ釣れなかったのかもう一度研究して、自分の足りない部分を学ぶ事が出来ました。もし私達が聖書に教えられている事をうまく実行できないときは、もう一度聖書を勉強して、なぜ出来ないのかを調べる必要があります。そして、神様の力を信じて忍耐することがクリスチャンとして成長することにつながるのです。
 ある人はこう思うはずです。なぜ忍耐できるのか。ルアーフィッシングにおいて忍耐できる人は、自分の実力を信じている人、魚が捕れると最後まで信じている人です。それができるのは、その人がものすごく釣りを愛しているからです。同じように、忍耐できるクリスチャンはどんなに大きな試練にあっても、神様を心から信じ、乗り越えられる事を信じています。それは、彼らが心から神様を愛しているからです。 ただし、釣り人とクリスチャンの違うところは、釣り人は自分自身を信じますが、クリスチャンは神様を信じるというところです。成熟したクリスチャンは、どの様な逆境においても神様を信じ、忍耐することで救われるということを信じています。

の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」ヘブライ人への手紙10:36
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」マタイによる福音書24:13

 可能性を疑い、魚が捕れないと思う人に魚が捕れるわけがありません。同じように、神様の存在を疑う人に、神様からの恵みを感じることは出来ません。クリスチャンとして成長するためには、まず心から神様がいることを信じ、神様を愛することです。なぜなら、それが信仰の大前提だからです。

最後にひとつの聖句、マタイによる福音書4:19を紹介したいと思います。

イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。

 イエス様を信じ、愛することにより、イエス様はあなたを罪という底なし沼から引き上げてくださいます 。そしてあなたがイエス様の弟子となったのなら、あなたがかつていた底なし沼で溺れかけて苦しんでいる人たちに、イェス・キリストと共に手を差しだして、彼らを引き上げ、救うことができるのです。魚が釣れただけでもとても嬉しいのに、いままで神様を知らなかった人が罪から引き上げられたら、もの凄く嬉しいはずです。みなさんは人間をとる漁師になりたいですか?
作者:西野貴基
編集者:品末拓真
05/10/2012



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ダニエル書 -全体の流れとあらすじ

ダニエル書 -全体の流れとあらすじ
1.ダニエル書は聖書の中で一番長い予言が書かれています。
2.ダニエル書9章には、メシア、救い主がいつ地球に来るかはっきり書かれています。
3.イエス様はダニエル書を勉強して理解するようにと弟子たちに教えていました。
4.ヨハネの黙示録を知るには、ダニエル書を理解する必要があります。
5.ダニエル書は、聖書の中で唯一封印されていた予言の本です。しかし、今はもうその封印がとかれて、誰でも聖霊と共に聖書を真剣に勉強すれば、理解する事が出来ます。
ダニエル書は12章あり、前半と後半に分かれています。1章から6章はお話です。7章から12章までは予言です。もちろん、ところどころに予言とか話が混ざっていますが、大体は前半と後半に分かれています。
ダニエル書には六つのお話と三つの予言が書かれています。
六つのお話
1章      - イスラエルの人たちがバビロンに占領される。
2章      - 未来を示す銅像の夢
3章      - 燃える炉
4章      - ネブカデネザル王が天の神様を認める
5章      - 壁に書かれるメッセージ
6章      - ダニエルとライオンの洞穴
三つの予言と説明
2章 - 予言と説明
7章      - 予言と説明
8章      - 予言と説明
9章から12章 - 8章の予言の詳しい説明
ダニエル書は1章から2章4節まではヘブライ語で書かれています。2章4節から7章の終わりまでアラム語で書かれています。8章から12章までは再びヘブライ語で書かれています。
                面白い事に、ダニエル書は同じようなテーマが最低で2回繰り返されています。たとえば2章と7章、3章と6章、4章と5章、大体同じようなテーマです。同じように1章と12章、8章と11章、9章と10章も大体同じようなテーマです。
Chiasm Structure) 交叉
アラム語の交叉
2章と7章 -神様がこの世の中を納めています。神様は歴史の流れをすべてお見通しです。
3章と6章 -神様を認めそして忠実に神様を従う結果。
4章と5章 -プライドを持ちすぎる結果。神様のお力を退ける結果。
Chiasm Structure 交叉
ヘブライ語の交叉
1章と12章 -バビロンが強くなり始め、ミカエルが立ち上がる。
8章と11章 -予言されている王国と神様の民の歴史的流れと関係。
9章と10章 -神様は心がこもっている必死なお祈りに対応する為に天使たちを私たちのもとへ送ります。

ダニエル書はどうやって、神様の王国が築き上げられるか説明しようとしているのです。そして、どういう人たちが神の王国の民になるのかを説明しているのです。本当に心から神様の事を従う人たちを心から神様の事を従ってない偽者の人たちから分ける方法も説明されています。
イエス様はダニエルを信頼できる預言者として認めていました。そして、ダニエル書に描かれてる予言を正確で信頼できる予言として扱っていました。(マタイ24章15節)ですから、そのイエス様がぜひ勉強して理解してくださいと言っていた本を共に勉強しましょう。



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聖所って何?

  聖所を理解する事で聖書の予言、教会の使命、神様の計画をもっと理解する事ができます。聖所とは、旧約聖書でイスラエルの民が神様を礼拝し賛美するために使っていた場所です。詩篇に書かれているアサフの歌を少し読んでみましょう。


アサフの歌 “神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。”
詩篇73編1-3節
アサフは悪しき者が栄えるのを見てねたみ、不満でした。
見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる。
詩篇73編12節
アサフは、なぜ悪しき者が安らかで幸せそうな人生を送っているのか、と疑問に思ったのです。悪しき者を見てうらやましく思いました。自分も悪いことをして、安らかで豊かな生活がほしいと思ったのでしょう。悪い事をしている人たちが満ち足りた生活をしていたら、それは誰だって不思議に思い、又うらやましく思います。しかしアサフは神の聖所を見て、その考えが変わりました。神の聖所に行き、自分が悪しき者になる必要がないと理解し、納得したのです。
わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。
詩篇73編17節
 そうです。アサフは神の聖所を見る事で、悪しき者の終わりを悟ったのです。さらにアサフは、正しく清い道を歩くほうが結果的にはいい未来につながる、と聖所を通して理解しました。
神よ、あなたの道は聖である。われらの神のように大いなる神はだれか。
詩篇7713節 新共同訳聖書 7714
詩篇77章13節を読みますと、『あなたの道は聖である』と書いてあります。しかし、もとの言語(ヘブライ語)で読んでみますと『聖』は『聖所』とも訳せます。要するに、『あなたの道は聖所である』とも言い換えられるのです。大いなる神様の道は聖所なのです。では一体なぜ聖所が神様の道なのでしょうか?聖所はそんなに特別なのでしょうか?出エジプト記に素晴らしい話が書いてあります。モーセとイスラエルの人たちがエジプトを出て荒野をさまよっていた時、神様はこう言いました。
また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。
出エジプト記25章8節
聖所が作られた理由は、神様がイスラエルの民と一緒に住みたかったからなのです。更に出エジプト記を読んでいきますと、イスラエルの民が聖所を神様のために作り、神様が聖所の中で暮らしていたという事がわかります。出エジプト記40章には聖所の中に置いてあった物、そして神様がイスラエルの民とどの様に暮らしていたのかが書いてあります。出エジプト記40章34-38節によりますと、聖所は神様の栄光で満ちており、荒野の中をさまようイスラエルの民は暑い日中は雲に覆われ、冷え込む夜は暖かい火で守られていました。なぜなら、神様が彼らと共に暮らしていたからです。
神様は今日でも、我々と一緒に暮らしたいのです。しかし、聖所は我々の近くにはありませんし、これを読んでいる多くの方はイスラエル人ではありません。でも心配はいりません。イエス・キリストの十字架での犠牲により全人類に、場所や人種に関係なく神様と共に暮らすチャンスが与えられているのです。詩篇77編13節にある通り、聖所は神の道です。聖所の中に置いてある物は一つ一つに深い意味とメッセージがあります。聖所のことをもっと勉強し、理解する事で我々の人生の目的や救いの計画、教会の歴史の流れ、イエス・キリストの人生について分かりやすく、更に詳しく理解する事ができます。ですから、これからいくつかの記事を通して共に聖所について学んでいきたいと思います。聖所シリーズを楽しみにしていてください。それまで日々祈り、楽しみながら聖書研究をして毎日を過ごしていきましょう。
作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真 
05/10/2012

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ダニエル書って何?

 ダニエル書はダニエルという予言者によって書かれた本です。英語では、ダニエル書や予言についての記事や本が沢山あります。しかし日本語では、あまりダニエル書や予言についての記事や本がなかったので、ダニエル書シリーズを書き始める事にしました。ダニエル書には合計12章あります。一章ずつ、分かりやすく説明する為に2012年の3月から記事を書き始めました。

 ダニエル書では、神様がものすごく貴重な情報を終わりの時代に住んでいる人たちのために預言者ダニエルを通して書かれた本です。私たちが書いた記事を通してもっと聖書や予言を学ぶ助けになればうれしいです。しかし、我々が一番に望んでいることは、あなたがイエス・キリストという人類の救い主を心から受け入れ、愛と希望と喜びで満ちた人生を一日も早く生きる事です。忙しい中だとは思いますが、ぜひダニエル書を読み、勉強してみてください。

**今のところは、9章についての記事まで書きました。10-12章はもっと分かりやすく書く為に研究中です。それまで楽しみにしていてください。

05/10/2012


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2012年5月9日水曜日

聖所の間取り図

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2012年5月7日月曜日

心の王座


「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
マタイによる福音書 6章24節

            たとえば、心の中に一つの座り心地の良い椅子があるとします。この椅子には自分を含めて誰でも座ることができ、また物を置くこともできます。ただし、ルールは誰かが座っているときはほかの人が座ったり、ほかの物を置いたりすることができません。この椅子は「心の王座」という名前がついています。つまり、その椅子に座っている人または物がその人の心を支配する王様となるのです。
            みなさんの心の王座に座っているのはだれですか?またはどの様な物ですか?自分が一日のなかで、一番よく考えることを思い浮かべてみてください。ある人の心の王座には友達、家族、恋人、憧れの芸能人やモデルなど、またある人には学校の課題、職場の役割、バイト、お金などが座っているかもしれません。もしくは忘れられない過去の出来事、将来の不安などが座っているかもしれません。いつも自分のことばかり考えて、落ち込んだり喜んだりしている人の心の王座には、その人自身が座っているはずです。
         この心の王座には一度に一人、もしくは一つの物しか座れないというのと、もう一つルールがあります。それは、自分でその椅子に座る人、または物を指定するということです。もちろんわたしたちは周りの環境に影響されます。しかしそれを上回る「意志」というものが与えられています。自分で「この人やこの物に心を支配させよう!」と決めることができるのです。
            もしこの心の王座に神様が座っていたらどうなるでしょうか? マタイによる福音書6章33節に「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と書いてあります。もし私たちが神様に「自分の心の王座に座ってください!」とお願いするとき、その椅子には神様しか座ることができません。もしほかの人やほかの物が心の王座に座っているときは、そのものでしか心は満たされません。しかし、神様がわたしたちの心の王座に座っているとき、神様は私たちに必要なものを全て与えてくださると約束しています。
            今みなさんの心の王座に座り、みなさんの心を支配しているのはだれですか?どの様なものですか?もし神様じゃない人や物がいるのなら、まずはそれをどけて、「神様、わたしの心にはいってきてください」と神様を自分の心の王座に迎え入れてください。素敵なことがたくさん待っているはずです。そして神様は、みなさんの人生を祝福してくれるでしょう。      
作者:森春香
編集者:品末拓真

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ダニエル書9章ー後半

あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。”
ダニエル書9章24-27節

24節
-「とがを終わらせ、罪に終わりを告げ,不義をあがない、永遠の義をもたらし」というのは、8章14節の「聖所は清められてその正しい状態に復する」ことを言っています。
-「幻と預言者を封じ」というのは、ステパノが石で打たれる事を表しています。ステパノはイエス様が父なる神様の右側に立っている幻を見ました。しかし、人々は怒り狂ってステパノを殺してしまいました。その結果、「幻と預言者を封じ」るという予言が成就したのです。ステパノについては新約聖書の使徒行伝に書かれていますので読んでみて下さい。

“人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。
使徒行伝7章54-60節

-「いと聖なる者に油を注ぐ」と言うのは、イエス様がバプテスマを受けた時に天から聖霊が注がれる(ルカによる福音書3章21,22節)事を予言していました。

25節
-「エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。」メシヤとは、救い主イエス様のことです。要するに、エルサレムを建て直せとの命令が出てから69週間後=483年後(予言では1日=1年)にイエス様が現れると予言されていたのです。ではいつ、誰がエルサレムに神殿を建て直せと命令したのでしょうか?

“諸王の王アルタシャスタ、天の神の律法の学者である祭司エズラに送る。今、わたしは命を下す。わが国のうちにいるイスラエルの民およびその祭司、レビびとのうち、すべてエルサレムへ行こうと望む者は皆、あなたと共に行くことができる。あなたは、自分の手にあるあなたの神の律法に照して、ユダとエルサレムの事情を調べるために、王および七人の議官によってつかわされるのである。かつあなたは王およびその議官らが、エルサレムにいますイスラエルの神に真心からささげる銀と金を携え、またバビロン全州であなたが獲るすべての金銀、および民と祭司とが、エルサレムにあるその神の宮のために、真心からささげた供え物を携えて行く。”
エズラ記7章12-16節

 エズラ記によりますと、アルタシャスタ王がエズラを通してイスラエルの人たちに神殿を建て直すようにと命じました。エズラ記7章7節では、「アルタシャスタ王の7年」目と書いてあります。歴史を調べてみますと、アルタシャスタ王の7年目と言うのは457B.C.です。457B.C.から69週間(483年)というのは、ちょうど27A.D.です。ルカによる福音書3章によりますと皇帝テベリオ在位の第十五年目に、イエス様はバプテスマを受けました。皇帝テベリオ在位の十五年目を、他の資料で調べるとちょうど27A.D.になります。要するに、ダニエル書9章25節で、イエス様がいつバプテスマを受けるかが正確に予言されていたのです。前にも言いましたが、ダニエル書はだいたい500B.C.から600B.C.頃に書かれています。ですから、イエス様のバプテスマは最低でも500年以上も前に予言されていたのです。人間にできることではありません。

26節
-「その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう」というのは、62週の直後、という正確な時間ではなく、ここでは62週の後のいつかと言う意味です。メシヤが断たれる、要するにイエス様が死なれる正確な時は27節に予言されています。
-「ただし自分のためにではありません」というのは、メシヤが他の人たちのために死んだという意味です。
-「またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう」というのは、エルサレムと神殿が70A.D.にローマによって滅ぼされることを予言しています。
-「洪水のように臨む」というのは、もとの言語では、「ものすごく大変な時期」という意味で書かれています。
-「そしてその終わりまで戦争が続き、荒廃は定められています」というのは、エルサレムがとことん荒れ果てるまで戦争は続くと言う意味です。

 ダニエル書9章26節を大きく分けると二つの予言があります。一つ目は、62週の後、メシヤ(イエス様)が他の人たちのために死ぬということです。二つ目は、エルサレムと神殿が滅ぼされるときは洪水のように大変な時期で、エルサレムと神殿が徹底的に荒らされるまで、ローマ国は戦争を続けるということです。

27節
 27節の予言はびっくりです。イエス様(メシヤ)が地球へ来る500年以上も前に、正確に、十字架で死ぬ年が予言されていたのです。もうすでに69週間の予言は説明したので、27節に出てくる70週目の1週間の予言を説明します。
-「彼は一週間の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。」彼というのはイエス様の事で、契約は罪の許しと天国での永遠の命という希望の約束のことです。
-「そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。」その週とは、70週目のことです。週の半ばは3.5日なので、3年半です。27A.D.にあったイエス様のバプテスマから3年半となると、31A.D.になります。そして、31A.D.がちょうど、イエス・キリストが十字架で亡くなられた時なのです。(バプテスマから十字架までが3年半であったというのは、ヨハネの福音書に記録されている過ぎ越しの祭りを数えればわかります。)
-「犠牲と供え物とを廃するでしょう」と言うのは、イエス様が十字架で全人類の罪の犠牲として亡くなられると同時に、神殿で捧げられていた犠牲の供え物は無用になったということなのです。なぜなら、イエス様こそが完全なる犠牲、神の子羊だったからです。よって神殿で行われていた子羊を捧げる儀式は必要無くなったのです。

“その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」”
ヨハネによる福音書1章29節

「また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終わりが、その荒す者の上に注がれるのです」。これは、イエス様を救い主であられるメシヤと理解していながらも拒否したユダヤ人たちの悲しい定めです。





















ちなみに、神殿を建て直す命令(457BC)から2300年と言うと(1843+1)1844年になります。ですから、ダニエル書8章14節に書かれていた聖所の清めは1844年に始まったのです。1844年以来、イエス様は天国の至聖所で、我々の永遠の命のために必死に執り成しておられるのです。そして、天国の至聖所での執り成しが終わった時、イエス様は雲に乗って天使たちと共に地球へ戻ってこられるのです。イエス様はもうすぐ帰ってこられます。天国は近いのです。

これでダニエル書9章の説明は終わりました。予言を通してイエス・キリストの素晴らしさをもっと理解する手助けを、この記事によってできたのならば、何よりもうれしいです。これからも、日々お祈りをして、聖書を勉強しましょう。一日も早く、あなたがイエス・キリストの想像以上の素晴らしさを心から理解できる日が来るのを毎日祈り、待ち望んでいます。

作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真
05/07/2012




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ダニエル書9章-前半

 9章4-19節はダニエルが神様にお祈りをしているところです。8章14節にある「二千三百の夕と朝」の意味が理解できないダニエルは困っていたのです。そこで9章2節に書いてあるように、ダニエルは聖書を勉強してその予言を理解しようとしました。

すなわちその治世の第一年に、われダニエルは主が預言者エレミヤに臨んで告げられたその言葉により、エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であることを、文書によって悟った。”
ダニエル書9章2節

 ダニエルは「二千三百の夕と朝」の予言が、預言者エレミヤのしたエルサレムの神殿についての予言(エレミヤ書25章と29章)と繋がっていると思いました。ダニエルは、エレミヤが予言した70年間のバビロンでの捕囚期限がもうすぐ終わりなのを知り、ひょっとしたら神様は、イスラエルの人々が神様に忠実に従っていなかった罰として、捕囚期限を延ばそうとしておられるのではないかと思い、困り果ててしまいました。そこで、我々イスラエルの民の罪を許してください、とダニエルは必死に神様にお祈りしたのです。そして9章20-23節にあるように、神様は天使ガブリエルをダニエルの下に送り、天使を通してダニエルに、8章14節に出てくる「二千三百の夕と朝」の幻を説明されたのです。

9章24-27節には更にいくつかの出来事が予言されていますが、それらすべての始まった時は同じです。その24-27節と「二千三百の夕と朝」の始まった時は457B.C.、すなわちエルサレムの神殿を建て直す命令が下された年です。後半ではそれについて詳しく書きます

作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真
05/07/2012
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ダニエル書8章― 後半

 クリスチャンとして、聖所を理解するのことは信仰的にも非常に重要な助けとなります。ですから、聖所についてもっと知りたいのでしたら、「聖所って何」と言う記事を「ダンくんコーナー」でお読みください。また、新約聖書にあるヘブライ人への手紙を勉強したら、もっと理解する事ができると思います。

“その角の一つから、一つの小さい角が出て、南に向かい、東に向かい、麗しい地に向かって、はなはだしく大きくなり、天の衆群に及ぶまでに大きくなり、星の衆群のうちの数個を地に投げ下して、これを踏みつけ、またみずから高ぶって、その衆群の主に敵し、その常供の燔祭を取り除き、かつその聖所を倒した。そしてその衆群は、罪によって、常供の燔祭と共に、これにわたされた。その角はまた真理を地に投げうち、ほしいままにふるまって、みずから栄えた。”
ダニエル書8章9-12節

8章10節と11節を簡単に説明しますと、要するに小さい角は天の神様に向かって威張り、力を誇示すると予言されていたのです。また「燔祭(捧げ物)を取り除」くというのは、イエス・キリストが我々の罪の犠牲として十字架で死んでくださり、もう我々は捧げ物を捧げる必要がなくなったことを示しているのです(ヨハネによる福音書1章29節)。また、それまで人々が罪もなき子羊を自分たちの罪の償いとして捧げていたのは、イエス様がいずれ来て全人類の罪の償いになるということを表していたのです。
 8章11節で小さい角が「聖所を倒した」とありますが、実際に70A.D.にエルサレムの神殿はローマ王国によって破壊されました。「燔祭を取り除」き「聖所を倒した」のは小さい角、ローマ王国なのです。小さい角についての更なる説明は9章~12章でします。

“それから、わたしはひとりの聖者の語っているのを聞いた。またひとりの聖者があって、その語っている聖者にむかって言った、「常供の燔祭と、荒すことをなす罪と、聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられることについて、幻にあらわれたことは、いつまでだろうか」と。彼は言った、「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」。”
ダニエル書8章13,14節

2300の夕と朝で聖所が清められると言うのは、どういう意味でしょうか?聖所が清められることを地球が清められ、イエス様が再臨することであると間違って解釈してしまった人たちが1800年代にいました。しかし、1800年代に再臨は訪れなかったので、多くの人たちは信仰を捨て、教会を失望と共に去っていきました。ところが、何故間違った解釈をしてしまったのかを知りたいが為、あきらめずに聖書を調べ、本当の意味を見つけようとして50人位の若者たちが集まりました。この50人位の若者たちは必死にお祈りをして、聖書を調べました。そして聖書を調べた結果、この聖所は地球の事ではなく、天国にある聖所のことを指していたのだということに気づきました。この若者たちは、新約聖書のへブル人への手紙でイエス・キリストと天国にある聖所のつながりを理解することができました。聖所が清められるというのは、イエス様が天国にある聖所から、至聖所の中へと入られるということだったのです。

“アロンとその子らは燔祭の壇と香の祭壇の上にささげることをなし、また至聖所のすべてのわざをなし、かつイスラエルのためにあがないをなした。すべて神のしもべモーセの命じたとおりである。”
歴代志上6章49節
 

 モーセの兄弟アロンがイスラエルの人たちのための大祭司であったように、イエス様は全人類の大祭司として天国にある聖所に勤めておられるのです。そして2300の夕と朝の後にイエス様は香の祭壇から至聖所へと移り、我々のために執り成しの働きをされているのです。イエス様が十字架を通して我々の救い主になったという事を認める人たちは皆、天国での永遠の命を得る事ができるのです。

 では、2300の夕と朝はいつ始ったの?正確な日にちはいつだったの?等の質問があると思いますが、答えはダニエル書9章にあります。それまでのお楽しみです。

さて、50人近くの若者たちはイエス様と天国の聖所の関係に気づいた後、更に聖書を勉強し続け、人々に伝えてゆくようになりました。そしてどんどん人が集まり、それは正式な教会となりました。その教会が、セブンスデーアドベンチスト教会なのです。ですから、セブンスデーアドベンチスト教会は、神様が主に若者たちを通して始められた教会なのです。もしもまた初代教会の持っていた福音を伝える力強さと勇気、勢いが欲しいのならば、我々若者が立ち上がるべきなのです。年配の方たち、大人の方たちと力を合わせ、我々若者が再び積極的にキリストの信仰と力によって福音を伝えていくべきなのです。そしてそれから終わりが来るのです。

そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。”
マタイ24章14節

我々のすべてを神様に捧げ、福音を伝えていきましょう。しかし、福音を全世界に伝える前には、もちろん日本全国に福音を伝える必要が在ります。聖霊の力により我々の世代で全世界に福音を伝え、近い将来にイエス様と天国を迎えられるよう全力を尽くしてがんばりましょう。

作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真
05/07/2012



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