2014年4月2日水曜日

4.2 (水)律法を行わない律法主義


あなたの周りにいますか?律法主義的な人。

いつも“正しい”ことをしてる人。“正しい”って分かってるんだけど、なんか居心地悪いな〜っていう人。みんなで何かしようとする時も、“正しい”ことじゃないとあんまりのってこない。
「まじめなんだね。」とすませてしまうけど、自分はあんまりそうなりたくない。

だって、律法主義チックじゃない。日常は日常。宗教は宗教。ちゃんと区別しないでいつも“正しい”ことしようとしてると疲れちゃうよ。律法を行うことで救われるわけじゃないんだから。

「律法主義者=律法を行う人」ですか?

ユダヤ人は、日常生活のあらゆることにまで宗教のきまりがおよんでいました。安息日だけじゃありません。日常生活のどこにでもです。それは、神さまが彼らの先祖にこう言われたからです。

「あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、…家に座っているときも道を歩く時も、寝ているときも起きているときも、」「あなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。」(申12:18,19; ヨシュ1:8
※ 要は:神さまの律法、どこで守ればいいんですか?「どこでもです。」いつですか?「いつでもです。」どれをですか?「全部です。」

それでユダヤ人は、日常生活でいつでもどこでも神さまの律法に従って歩めるように、あとからいろんな決まりをつくったんです。
「ユダヤ人は大変だったね。律法を守らなくていいクリスチャンで良かった。」

ちょっと待ってください。神さまがイスラエルに求めたことと、今日僕たちに求めていることは何か変わったでしょうか?

イエス様の律法、どこで守ればいいんですか?「どこでもです。」(1コリ10:31) いつですか?「いつでもです。」(ガラ6:9)どれをですか?「全部です!」(マタ5:18,19; ヤコ2:10)
イエス様は今日もはっきりと、僕らがいつでもどこでも、神さまの律法を忠実に守ることを求めておられるんです(マタ28:20)。

あれ?でもイエス様は律法主義はだめっていったじゃない。
イエス様が責められた律法主義は、「〜してるから大丈夫」という心です(マタ3:7-9; 6:7,16)。律法主義は行いじゃなくて心の問題です。「僕はあいつみたいに律法主義じゃないから大丈夫。」これも立派な律法主義です!

神さまの律法は、愛の律法であり、心で従う律法です(マタ22:37)。だから、イエス様の恵みによって心が新しくされなければ、決してぼくたちは律法を守ることができないのです(ヨハ3:3; ロマ7:18-20)。
つまり僕らはだれ一人として、常にイエス様の恵みを受けていない限り、何をしようがしまいが大丈夫じゃないのです!そして、恵みによって変えられた心は、愛の律法を守ります(ロマ6:1,2; ガラ5:22,23; 1ヨハ3:9)。

ファリサイ派の人は律法を守っていたでしょうか?いいえ、彼らはイエス様が律法に従っていないと責めながら、心の中は憎しみと殺意でいっぱいでした(ヨハ7:19)。彼らはどうしてイエス様を憎んだのでしょうか?イエス様がいつも“正しい”ことをしていたからです(ヨハ10:32, 1ヨハ3:12)!

律法主義者=律法を行う人ではありません。いつも正しいことをしている人でもありません。
「〜してるから、あるいは〜してないから、僕は大丈夫。」
そういう心を今ぼくたちが持っているのなら、イエス様の前に心を砕いて、この律法主義の心から救ってくださるよう、恵みによって心を変えていただけるよう、ともに祈りましょう。

執筆:山地悟
2014/04/02

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