お酒飲んじゃダメ、短いスカートはいちゃダメ、安息日にはテレビ見ちゃダメ、
ダメ、ダメ、ダメ、ダメ…
ほら神さま、あなたがダメだって言うからこんだけがんばって守ってきましたよ。ほかに何をすれば命が得られますか?(マタ19:16-20)
イエス様は、青年に言います。「まだそれでは足りない。あなたの持っているものを全部捨てて、それから、わたしに従ってきなさい。」(19:20)
愕然とする青年。これだけ犠牲を払って、まだ足りないって??あなたは僕から全てを奪うつもりですか?
もう結構です、やってられません。(19:22)
これが、ダメダメ宗教の限界です。
殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな…(出20:3−17)
なんで神さまはこんなに「ダメ、ダメ、ダメ」って僕たちに言ってくるんだろう。
その律法が与えられるまでには、こんなプロセスがありました。
神さまはモーセを通して、エジプトの奴隷生活からイスラエルの人々を驚くべき方法で救い出しました。自由の民となった彼らを、神さまはさらに荒野へと導きます。
暑い昼には雲の陰を、寒い夜には暖かい火を、おなかがすけば食べ物を、のどが渇けば水を与え、まるでお母さんが赤ちゃんの世話を大事にするように、神さまは人々を優しく導いて行くのです(ホセ11:1)。
シナイという山のふもとで、神さまは人々と愛の約束を結びます(エゼ16:5−8)。「これまでわたしが、あなたのことをやさしく導いてきたのを見たでしょう?これからはわたしのもとにとどまりなさい。わたしの声に従いなさい。あなたはわたしの宝物だから。」(出19:4,5)神さまは、神さまが民のことを愛しておられたように、彼らにもご自分のことを愛し、信頼してほしかったのです(申命記6:4,5; 7:6,9)。
わたしがあなたたちのことを愛したように、あなたたちもわたしのことを愛して、従いなさい。ほんとはそれ以上の約束事は必要ありませんでした(マタ22:37-40)。でも、彼らは未熟すぎたのです。
お母さんが赤ちゃんの遊び場の周りを柵で囲むように、神さまは人々に戒め(十戒)を与えられました。それ以上向こうに行ったら危ないよ。そうじゃなくて、真ん中にいるお母さんのところにおいで(ガラ3:24)。
神さまが十戒を与えられたのは、柵の外にある楽しみを僕たちから奪うためですか?いいえ、それは僕たちが十戒の中心にいる神さまのもとを離れずに、常に危険から守られ、彼の愛を受け続けるためだったのです(申11:13-14,22-23; ヨハ15:9−12)。それはただ、僕たちの幸せのためでした(申5:29)。
柵の中にいながら、お母さんから離れていることもできます(ルカ15:29)。彼らは柵の中にいるお母さんのことなどどうでもいいのです。いつも柵の外を見つめ、そのことに心を奪われてこう言います。あぁ、ここから出られたらどんなにいいことだろう。
ダメダメ宗教の、悲しさです。
僕たちが、ただ神さまのもとにいて彼の愛を受けつづけたいと望むなら、柵の外のことなどどうでもよくなるのです(マタ13:44)。すべての戒めの中心にいる神さまのことを心から愛するなら、僕らは決してダメ、ダメという戒めに縛られることはないのです(ロマ13:8)。
青年は聞きました。永遠の命を得るには、一体どんなことをすればいいんですか?(マタ19:16)
その答えはただ一つ。僕たちに命と愛を与えるたった一人の神さま、イエス・キリストを知ることです。(ヨハ17:3)
執筆:山地悟
2014/04/03
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