2014年4月13日日曜日

4.13(日)いいね!ほしい!


 いいね、いっぱいもらえるとうれしいですよね。
「自分、ほかの人からどう見られてるかな?」って、死ぬほど気になることありますよね。
かっこいいね、かわいいね、すごいね、面白いね、そう言われるために、だれでも努力しますよね。

ごくふつうの自然な人間が、だれでも生まれつきもっている心です。

聖書を読んでると、「ファリサイ派、律法学者=悪者」ってすぐ僕らは思います。

でも当時の人たちはそんな風に見ていませんでした。彼らは人々から尊敬され慕われる、立派な先生たちだったんです。
弟子たちさえ、イエス様が彼らに対してネガティブな発言をすると、「なんでそんなひどいこというんだろ」って思っていました(マタ15:1-12)。
人々も、ファリサイ派の人たちを責めるイエス様の姿を見て、「ちょっと言い過ぎなんじゃない?」と思ってたはずです。

イエス様はどうして彼らのことを責めたのでしょうか?
それは、僕たちが見たら、少しびっくりするような理由です。

彼らの「することは、すべて人に見せるためである。」(マタ23:5

「他の人からどう見られてるかな?」
「かっこいいね、すごいね、って思われたい」(マタ6:5,16; 23:6,7
彼らは何も特別な大悪人だったわけではありません。僕たちがだれしも生まれつきもっている、ごくふつうの人間の心をもっていたのです。

しかし、イエス様に対する殺意を湧かせ、彼らをもっとも残酷な行為に駆り立てたのは、その「ごくふつうの人間の心」だったのです!

イエス様は、神さまの愛の原則を僕たちに教えるため、この世にやってこられました(1ヨハ3:16; 4:9)。
それは、人の幸せのために自分の命を与える、「自分<他人」の原則です(マタ22:37-40; ヨハ12:13)。

しかし、僕たちはみんな、サタンが始めに天でおこした、罪の原則によって生きています(ロマ3:23)。
それは、自分が高められるために人の命を奪う、「他人<自分」の原則です(イザ14:13,14; エゼ28:17; ヨハネ8:44)。

どうか、よく自分の心を見つめてみてください。
わたしは、イエス様が命を賭けて教えてくださった、愛の原則によって生きているでしょうか。それとも、イエス様の命を奪った、罪の原則によって生きているでしょうか(ガラ1:10)。

僕たちが今日、「ごくふつうの人間の心」によってではなく、神さまの愛の心を受けて生きることができるように。へりくだって、イエス様のもとに心をあずけたいと思います(ヘブ8:10; 1ヨハ4:7)。

執筆:山地悟
2014/04/13

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