神さまの律法に背くものは、滅ぼされなければならない(申8:19,20)。
無神論者は笑います。「背く者に死の宣告をしておいて、なにが愛の神さまだ!」
それはエデンの園で響いた悪魔の声の反響です。「自分に背く者は死ぬなんて、それが愛の神さまの言うことだろうか。」(創3:1,4,5)
アダムとエバは悪魔の声に耳をかたむけ、神さまの言葉に背きました。そして神さまの言われたとおり、彼らは死ななければいけなくなった(創2:17; 3:6)。
悪魔はどんなに狂喜したことでしょう。人間に死の宣告をしなければいけない神さまを指さして、彼は自分の主張を堂々と叫ぶことができるのです。
「見たか、これが愛の神さまだ。自分の手で造った人間を、ただ食べるなと命じた木の実を食べただけで滅ぼしてしまう。自分の地位を維持するためなら人間が死のうがかまわないんだ。これの一体どこが愛だというんだ?」
日が暮れて、神さまはエデンの園にやってきました。人間への死の宣告が発せられるのを、今か今かと耳をそばだてて待つ悪魔。そんな彼の耳にまず響いてきた神さまの言葉は、彼の期待を大いに裏切ったはずです。それは、人間ではなく自分に対する滅びの宣告と、人間に対する救いの約束だったのです。
わたしは、人間がおまえに支配され、滅びるがままにしてはおかない。女から生まれる一人の人が、おまえから人間を奪い返す。「彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」(創3:15)
悪魔はこの宣告を聞き、いずれ「女の子孫」である救い主が、人間を滅びから救うこと、そして彼によって自分が滅ぼされることをしったのです。そんなことはさせるか!
イエス様がベツレヘムで赤ん坊として生まれたとき、悪魔はこの人が人間の救い主であることを知っていました。エデンでの宣告が実現しないようにと、悪魔は必死になってイエスを滅ぼそうと力を尽くします(黙12:4)。そしてついに彼は、ユダヤ人達の憎しみをかき立て、人々の狂気を利用して、イエスをゴルゴダの丘で十字架につけ、滅ぼすことに成功するのです。やった…
ところが彼はすぐに、キリストを十字架につける行為そのものによって、神さまの宣告を実現させてしまったことに気付きます。彼はやっと救い主を滅ぼしたと思ったのに、実際には自分のことを滅ぼしていたのです。
「彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く」
ゴルゴダは、頭蓋骨という意味です(ヨハ19:17,18)。神さまの宣告どおり、悪魔はイエス様を十字架にくぎ付け、彼のかかとを砕くことに成功しました。しかし十字架がゴルゴダ(頭蓋骨)の丘に突き刺されたとき、イエス様はご自分のかかとで悪魔の頭を打ち砕いていたのです(ヘブ2:14)!
十字架によって、悪魔の偽りが完全に暴露されました。悪魔は、「神さまは、自分の地位を守るためなら人間が死んでもかまわない。」と言っていました。とんでもない、むしろ神さまは、人間を死から救うためなら、自分の命、ましてや自分の神としての地位などどうでもよかったのです(1ヨハ3:16; フィリ2:6-8)!
さらに悪魔は、神さまへの非難が実は自分の本性であることを暴露しました。彼こそ、自分の権威を守るためなら、最も悲惨で残忍な方法によって神の子を殺すことさえ何とも思わなかったのです(1ヨハ3:8; ヨハ8:44)。そしてこれは、彼が神さまの愛の律法に背いたことの結果でした(1ヨハ3:4)。
彼は自分の手によって、神さまが愛であるということ、そして愛の律法に背いた自分が、神さまの言うとおり滅びるべきものだということを、全宇宙の前ではっきりと証明したのです。
律法のメッセージに神さまの愛を見ることができない人がいたら、その人はキリストの十字架を見上げてください。律法に背いたものが死ななくてもいいように、むしろ自分が死ぬことを選んだ神さまの姿をみてください。
アダムとエバがが罪を犯した瞬間から、彼らには救い主が与えられていました。モーセに与えられた律法は、キリストを指し示す救いの約束と一体になっていました。
アダムからの全ての時代を通じて、人間に与えられている神さまの律法は、キリストの愛と救いのメッセージと一つなのです。
執筆:山地悟
2014/04/04
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