「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27, 28)
この言葉を、もう一度じっくり読んでみてください。
イエス様の言葉は、語られたファリサイ派の人たちにとってどういう意味があったんでしょうか。
「わたしが、安息日の主なんだよ。安息日は、あなたたちのために、わたしが定めた日なんだよ。」
ファリサイ派の人たちは、安息日を定めたのが誰なのかよく知っていました。
「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(創2:3)
つまり、創世記に出てくるすべての創り主である神さまとは、わたしのことなんだよ!
ご自分を「安息日の主」と呼ぶことによって、イエス様は彼らにそう伝えていたんです。
イエス様は、安息日の大切さを、その意味を、誰よりもよく知っていました。なぜなら安息日を定められたのは、他ならぬイエス様ご自身だったからです。安息日の中には、イエス様の人間に対する思いがぎっしりつまっていたのです。
造られたものに込められた思いを一番よく知っているのは、それを実際に造った人をおいて他にいないのです。
今週の教課は、「安息日の主」であるイエス様の視点から、安息日とイエス様との関係について学んでいきます。
どうか私たちが、安息日のうちに込められたイエス様の思いを、もっともっと深く理解することができますように。祈りながら学んでいきたいと思います。
執筆:山地悟
2014/04/26
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