あなたの価値を決めるものはなんですか?
ファッションやスポーツ、あるいはジョークのセンス。自分の夢を叶えるため、勉強や練習をこつこつと続ける努力かもしれません。
人がいかに自分を評価してくれるか、認めてくれるか。
それが僕に生きる価値を与えてくれるんだ。
僕はそう信じて生きていました。そして、自分はある程度そういうものを持っていると思ってたから、生きていることができました。
しかし、高校時代、僕はその信条に隠された恐ろしい意味に気付きました。
もし、自分が何をやっても、センスのかけらも感じることができなければ。疲れてしまって、もうこれ以上努力することができなくなったら。
もし人が、自分の価値を認めてくれなくなったら。
僕は、今ここに生きている価値がないのか?
人から認められないと、人から愛されないと、僕は生きている意味がないんだ。そう気付いた僕は恐ろしくなりました。
それから僕は必死になって努力しました。何をするにも他の人に負けないように、自分がだれよりも注目を浴びるように、できることはすべてしました。
でもそうしながら、自分の弱いことと、汚いことと、自分が本当は認められる価値がないことは、自分自身の心が一番よく知っていたんです。
だから、それを取り繕うとして努力すればするほど、僕の心は次第に疲れ切っていきました。
人の標準に従って生きる人生。その行き着く先は、失望です。
「人の言葉ではなくて、わたしの言葉を一番大切にしなさい。」(イザ2:22; 申5:32; マタ15:6)
神さまがそう言われたのは、彼がただ、利己的で融通の利かない独裁者だからだと思いますか?
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サム上16:7)
「あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。…
わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し」ている。
「わたし、このわたしは、わたし自身のために あなたの背きの罪をぬぐい あなたの罪を思い出さないことにする。」(イザ43:1,4,25)
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタ11:28−30)
「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。…
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ロマ5:8; 8:32)
「草の花のよう」に枯れてしまう人の標準と、たとえ「天地が消え失せ」ようとも、「永遠に変わることがない」神さまの愛の言葉(1ペテ1:24,25; マタ5:18)。
あなたは今、どちらに従って生きていますか?どちらの標準によって、自分自身の価値を決めていますか?
僕は、神さまの標準に従って生きることを選びます。
僕の人生を180度変えた、神さまの愛の言葉との出会いを経験したからです。
執筆:山地悟
2014/04/15
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