もし自分がイエス様の時代に生きていたら、
パリサイ人みたいにイエス様を拒み続けることはなかっただろう。
そう言ってしまう前に、よく考えてみてください。
なにが、彼らにイエス様のことを受けいれられなくさせたのか。
エリートとして、一生かけて積み上げてきた大事なキャリア。
いつも自分の言うことに耳を傾けてくれていた、人々の尊敬。
これが正しいんだ!って命を注いできた、自分自身の信条。
彼らにとってイエス様を受けいれることは、自分の命すべてを犠牲にすることと同じでした。それを守るために、彼らはイエス様を犠牲にすることを選びました。
しかし、彼らが拒んだイエス・キリストこそが、彼らに命を与えることのできる唯一の救い主だったのです。
パリサイ人たちを責める前に、マタイ23:29−31を読んでみてください。
そして自分自身に問うてみてほしいんです。
わたしは今日、イエス様の命をうけるために、自分の命を喜んで捨てることができるだろうか?
「パリサイ人は預言者たちの墓をたて、その墓所を飾って、もしわれわれが父祖たちの時代に生存していたら、神のしもべたちの血を流すことに加わるようなことはしなかったであろうと、互いに言った。同時に彼らは、神のみ子の生命をとろうと計画しているのであった。このことはわれわれにとって教訓とならねばならない。このことによって、われわれの目は、真理の光にそむく者を欺くサタンの力に対して開かれねばならない。
多くの者がパリサイ人と同じことをしている。彼らは信仰のために死んだ人たちを尊敬する。彼らはキリストをこばんだユダヤ人の盲目をふしぎに思う。もしキリストの時代に生存していたら、われわれはよろこんでその教えを受け入れたであろう。われわれは救い主をこばんだ人々の罪にあずかるような者とは決してならなかったであろうと、彼らは断言する。しかし神に従うために、克己と屈辱が要求されると、当の本人たちがその確信を押えつけて、従うことをこばむ。こうして彼らは、キリストが非難されたパリサイ人と同じ精神をあらわすのである。」
~各時代の希望 67章より~
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
マタイ16:24,25
執筆:山地悟
2014/04/18
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